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February 10, 2010
  みやこのあくしょいちろくまるまる

慶長の京四条河原には数多の芝居小屋が跋扈していたようです。
いつも特別展だけに出掛けてひしめく人波に這々の体となって帰ってくることになる国立博物館ですが、平常展はすこぶる空いていて、ときには六曲一双の屏風も吾一人のものとなる贅沢。

洛中洛外図・舟木本を目当てに上野の山へ行ってまいりました。(左画像は東京国立博物館・本館内の休憩処。本文内容とは関係ございません)

保存のため公開は年にひと月と限られている作品ですが、ひっそりとした保管庫で眠っているより人前に出て、人々の感嘆などとともに過ごしたほうが似合いだろうと思ったほど賑やかさ。洛中洛外図はいくつか見てきましたが、こんなに享楽的なモチーフをたくさん盛り込んだものは初めてかもしれないという印象を得ました。
東寺の五重塔からの視点で描かれているそうですが、右隻に豊臣家の方広寺大仏殿を置き、左隻に徳川の二条城があり、ともに目を惹く大きさなのですが、洛中洛外図はなんといっても町衆の風俗を見ていくのがおもしろいです。

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November 2, 2009
  画家の狂気は唯わたくしを呆けさせるだけなのです。

拙ブログへコメントをくださるfuRuさんのaf_blogにて東京国立博物館で行なわれております「皇室の名宝 1期」の展示取材エントリー中の、
  「 若中 30幅 」
の言葉にすこぶる反応してしまいました。fuRuさんは、ブロガープレビューの取材員としてこの展示の公開に先立って見て来られたのだそうです。

af_blog「皇室の名宝」@東京国立博物館-ブロガープレビュー
同じく、『「もし1点だけ持って帰れるならどれにするか? どこに飾りたいか?」

ところがなかなか上野の山にゆく時間を見いだせず、この第1期(11月3日迄)終了間近になって、ようよう行くことができたのでした。そして案の定、すこぶる混雑しておりました。

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7:02 PM permalink | comments (4) | trackbacks (0)

August 22, 2009
  世界は巨大なごたまぜであるが、画家はその中へも入ることができなかった

終戦の日、全国戦没者追悼式が行われる日本武道館のすぐ南、国立近代美術館へ父と行ってまいりました。
ゴーギャン展
月遅れ盆の日であったからでしょうか、この日、入場はまったく混んでなく、作品も(三鷹市美術ギャラリーでの牧島如鳩展のようにひとりで独占鑑賞できることはありませんが)見やすかったです。

今回の展示は作品点数でボリュームが乏しいながら、大作「我々はどこから来たのか 我々は何物か 我々はどこへ行くのか」を中心に据えたエディテングが秀逸であったように感じました。
展示はフランス時代、ブルターニュやアルルでの仕事から始まりました。
フォルムの徹底した単純化、平面である絵画が1千年以上かけて希求してきた立体への憧憬を破棄し、色彩の階調だけで眼前にあるものを捉えているように思えます。

この時代の各々のモチーフ、そのフォルムをここで見せておくことの意義。

タヒチへ渡ってからの作品は、ブルターニュでの作品からも感じていたのですが、徹底してゴーギャン自身の「よそ者」度が増してくるように思えてなりませんでした。被写体、モデルとの明らかな断絶がその視線から伝わってきます。

そして晩年の大作「我々はどこから来たのか 我々は何物か 我々はどこへ行くのか」へ。
生から死、創世記から黄泉の国へといった一大物語が単純なフォルムの組み合わせで成し得ており、組み合わせられた各々のモチーフはかつて見てきた1点1点の主題に重なってゆくのでした。わたくしはここで、この19世紀末に描かれました作品に同じ世紀のワーグナーの楽劇を重ねて観ておりました。
誤解を恐れずに云えば、両者とも「巨大なごたまぜ」であります。

そして最晩年、ゴーギャンはマルキーズ諸島へと渡りますが、ここでのモチーフのフォルムは弱々しく、生気のない、ひたすら死へ向かっているようなものになってしまっているのでした。そしてゴーギャンはその地で死ぬのですが、ひとり、よそ者として、旅立っていったのでしょう。

9月23日まで。

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August 9, 2009
  天空を臨むトラックの荷台

厚い雲に覆われた日曜日、JR三鷹駅前にございます、三鷹市美術ギャラリーへ行ってまいりました。駅前にこのような施設ができていたとは存じませんでした。

牧島如鳩展−神と仏の場所−
2009年 7月25日(土)〜8月23日(日)
三鷹市美術ギャラリー
【開館時間】 10:00〜20:00(入館は19:30まで)
【休館日】 月曜日
【観覧料】 会員=480円 一般=600円 65歳以上・学生(大・高)=300円
中学生以下・障害者手帳をお持ちの方は無料


牧島如鳩=まきしまにょきゅう(1892-1975)の簡単な履歴は上記リンク先で確認いただきたいのですが、ほとんど知られていなかった彼の作品群が巡回展というかたちで足利市から始まり、ようやっと首都圏へやってきたのです。これは見過ごせません。

正統的なイコン、正統的な仏画は、だんだんとクロスオーバーされてゆき、仏画的な顔を持つ聖母子像となったり、洋画的肉感の観音像となってゆくのですが、圧巻はある村で起こった連続多発的幻視体験を取材した「龍ケ澤大弁才天像」と、不漁に混迷した小名浜村漁港の依頼で制作した「魚藍観音像」でしょう。
上記のクロスオーバー化がもっとも進化し、双方の俯瞰絵には洛中洛外図的な要素も垣間見え、このような絵画をまったく見たことはございません。
しかも「魚藍観音像」のほうは漁港からの発注で、完成後この絵はトラックに乗せられ町中を走り回ったそうです(その後、めでたく豊漁が続いたとのこと)。
そうなのです。コレクターや美術館からの発注ではないのです。いままで見たことも無い観音様の姿が町中に晒される、これこそ芸術なのではないか!
会場のキャプションで如鳩は美術のメインストリームからははずれており、美術史的には門外漢であったとする記述が見られました。確かに(クロスオーバーした)技法は純粋なものではないかもしれません。しかし如鳩の心の中では神も仏も同様に尊ぶべき存在であったことは作品群からしっかりと発せられております。この作者の心の有り様は正しく純粋なものではないでしょうか。美術的権威から遠いところにあればあるほど、これら如鳩の作品が光り輝く存在に思えてなりません。いや、まったく、あっぱれな芸術作品を見せていただきました。

「龍ケ澤大弁才天像」や(千手観音)と同化した「聖母像」は、巡回が終了しました北海道立函館美術館のサイトでサルネイム画像を見ることができます。

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June 17, 2009
  かたち在るものが立ち昇る楽器の響き(3)

ショスタコーヴィチの音楽はヴォルコフによる「証言」によってだいぶ偏ったイメージが定着してしまったようですが、本当のところは本人以外誰も解らないのではないかと思うのです。
彼が書いた初期の弦楽四重奏のいくつかが殊に顕著であると思えるのですが、時代性や思想的背景などとは関係なく純な響きで満たされており、唯々美しいかたちの音楽が其処に在るといった印象を持つことができます(これは古典的な濁りの少ない三和音で楽曲が作られているという意ではなく、あくまでも音だけによって音でしか表現できない種の音楽になっているということです)。

今回、庄司さんが映像作家のパスカル・フラマン氏と共作したビデオ作品では彼女が弾くショスタコービィチ「24のプレリュード 22番アダージョ」が流れるのですが、この曲も本来音楽以外のことを必要としない純な響きで満たされていると思います。ところがふたりはそれを映像作品に付加させている...
この曲を弾く庄司さんのなかに何が起こっているのか、それを想像しながら作品を観てみました。

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June 16, 2009
  かたち在るものが立ち昇る楽器の響き(2)

もう終了してしまいました展覧会のことですが、画廊がひしめく東京・京橋の一角に比較的最近(2004年のことだそうです)オープンしましたPUNCTUMへ、庄司紗矢香展を観にいったのでした。
出展はカンバスに描いた油彩9点と、指定された時間に上映されるビデオ作品(これは庄司さんと映像作家、パスカル・フラマン氏との共作)1点。
絵画作品には例えば「遠くから Lontano」というタイトルとともに「ブロッホ:ソナタ1番2楽章 "Lontano"」とその絵を描いた素材としての楽曲楽章名が添えられておりました。とはいえその楽曲楽章全体から得られるイメージではなく、ある瞬間に過るイメージを絵画化したように判断できます。(その時間的に十数秒の音楽の断片はそれぞれの絵の下に用意されたポータブル・プレーヤーとヘッドフォンによって試聴可能になっておりました)

わたくしが「金属片や針金が重層的に折り重なり、そしてそれがひとつの塊になったような印象」と記しましたリゲティ作曲「ヴァイオリン協奏曲」の3楽章冒頭を描いた作品には女性の姿が認められ、その長い髪をたどりますと木が連なっているようなモチーフも描かれております。わたくしとは違って彼女はずいぶんと柔らかいイメージを見ているようですね。

そして同じく拙エントリーで「鄙びた旋律が印象的。」と記しました同曲2楽章を材にとりました作品では荒涼とした風景に思える黄土色の大地と山と捉えてよいのでしょうか、そしてその背後にヴァイオリンの弦を押さえる(彼女自身の?)左手を認めることができます。彼女は彼女の楽器が音を響かせるところから映像イメージを立ち上がらせているように思えます。
このことから他の誰かによる音楽演奏ではなく、あくまでも自身が発した音、響きそのものが映像化絵画化されていることが解るのですが、世界屈指の技術をもったヴァイオリニストの感受性を垣間みるようで興味深いです。
作品には「ベルク:ヴァイオリン協奏曲冒頭」から材をとりました「ある天使の思い出に」のように楽曲の標題的イメージをそのまま表した作品も見受けられましたが、先の「リゲティの2楽章」や「プロコフィエフ:ソナタ2番4楽章」からの抽象的な絵画作品のほうが私的にははるかに音楽を感じられるように思えたのでした。

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June 15, 2009
  かたち在るものが立ち昇る楽器の響き(1)

大倉山でのコンサート(「それを燻し銀の音といふ(1)(2)(3)」)から帰宅し、ひとり遅い夕食をとりつつめくった夕刊。以前わたくしを哀しい気持ちに導きました梅津時比古氏のコラム、その最新稿に庄司沙矢香さんの名が見えましたので、本文を読まぬように気をつけながら、切り取り、スクラップブックに貼付けるという古典的アーカイブを為したのでした。

ところで6月1日、庄司さんが出演しましたMusic Tomorrow 2009でのホール・ロビーに並んだ(たいていは関連するコンサートのものが置いてある)幾つかのチラシのなかに、おや?というものがございました。
美術個展のチラシなのですが、そこに庄司紗矢香さんの名があったからです。
どうやら彼女が描いた絵と、映像作家と共作したビデオ作品の上映をカップリングした展覧会があるとのこと。わたくしは、ほほうと、その小さな紙片をさらに折り畳んで上着のポケットにしまったのでした。
後日の梅津氏のコラムに庄司さんの名が見えたとき、ははん、例の個展のことだなと、であれば梅津氏の素敵な言葉に触れる前にまずは自分の目で庄司さんの美術作品を見てみたいと思ったことが、そのコラムを読まずにスクラップブックへはさみ込んだ理由なのでございます。

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