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March 6, 2010
  啓蟄の虫は春のにほいに鼻を蠢かす。

(三月五日のこと、)
昨晩の雨がすっかりあがり、青々とした空が心地よく身を包む朝、所用あって、久しぶりに人形町へ。啓蟄の虫のごとく地下鉄駅から地上へと這い出てまいりました。
大通りからひとつ入ったまだ仕度中の商店が並ぶ道の人影はまばらでしたが、着物に前掛けをした寿司屋の女将さんは雨も疾うに乾いた店先に水を打っておりました。パーマネント屋の鉢には絵日傘というのでしょうか、紅白斑の椿が凛として咲き、菓子屋からはニッキ(ここではシナモンと呼ばないほうが似合っていると思います)の香りがたち、春めいた陽気に心までほかほかとしてまいります。
しばらくしてこんどは、このあたりは寺町ではございませんが、ふうっと鼻を包んだのは線香からたったほのかなにおい。何処かの御宅の仏壇で燻されているのでしょう。商店街とはいえ、店と家が同じ屋根の下にあるといったことは以前では普通のことであり、その普通の営みが此処ではまだ息づいているようです。

用事はすぐに終わり、時間があったので大川端へ寄ってみることにしました。
箱崎の高速道路の下から堤防を越えますと、たくさんの保育園児が明るい日差しの下で遊んでおりました。その陽は強く、少し歩いてきただけで汗ばむようでしたから、上着は小脇に抱えることにいたしました。昨晩の雨に川は洗われたのでしょうか、この日はあまりドブ臭くなく、風はほんのりと潮のにおいを運びわが身を摩るようにして過ぎてゆきます。
清洲橋。
南にそびえる旧石川島の高層マンション群、そして北に見えるまだ半分の高さなのに視界に迫る墨東峻絶塔(ああ、世間では東京スカイツリーと申すそうな)、ここから石川島へはおよそ1.5キロ、押上まで3キロメートルほどしか離れておりませんが、靄に覆われコントラストが著しく低い遠景。
これはもう春の様子でございます。

翌日からは、また天気が崩れるとのこと。そのせっかくの一日の一時をこうして過ごせましたこと、ありがたいことでした。

11:48 PM permalink | comments (6) | trackbacks (0)

December 1, 2009
  晩秋を拾う

濃い緋の色に染まった桜の葉に深まる季節を感じます。
ところが外濠の木々はまだ緑々しい葉も多く、黄に色づいたものがほとんどの有様。寒空への化粧が進行した枝でさえようよう橙か朱に成り得たものがちらほらで、緋にまで色が深まるにはまだまだ時間がかかりそうです。
昨年はこんな調子で緋色に染まる前に葉は全て落ちてしまいましたので、外濠の並木は美しくなりきれない寂しい初冬を繰り返し迎えることになるかもしれません。

先日の日曜日は鈍色の雲に覆われていましたが、都心よりも幾分かは深まる秋を感じられるであろうと、そんな季節の落とし物を探しに、公道での自転車運転に少し慣らす目的も兼ねて娘と近くに流れる川までサイクリングに(わたしはママチャリで)出かけたのでした。
11月初旬、小学校の生活発表会的な催しにてどんぐりを使うとのこと、すぐ近所のくぬぎが多く植えられた公園ですこぶる大量のどんぐりを収穫しておりましたので、今回は違うものを探しに、川原へと向かったのでした。
そうして河川敷でススキを抜いてみたり、ひっつき虫であるオナモミをみつけたので枝の一部をいただいてきたり、川沿いの公園の桜の下、橙、朱の葉を拾ったり、まだ鳥たちに食べられていない姫林檎をふたつみっつ失敬したりと、娘にとっては長旅でありましたでしょう、往復6キロをのんびりと楽しんできたのでした。

2:52 AM permalink | comments (4) | trackbacks (0)

November 23, 2009
  あはれ濹東に峻絶塔哀し、されどL.G.HAUS楽し也

Makalani @ L.G.Haus13

生活のかほりが路地にまで浸みでてきている街を歩くのは心地よいではないですか。
東武亀戸線、小村井駅を降り、文花から京島へ。表通りを避け、裏道を抜けてゆきますと、ときおり家と家の間から建設中の濹東峻絶塔の姿が、もう陽の落ちた晩秋の夕景色、街景色を脅嚇するがごとく現れてまいります。

21日の土曜はリニューアルとなりました京島のLOVEGARDENへ。詳細は此処其処、そしてもちろん何処(?)でもご覧いただけますように、Makalaniさんの匂いやかな歌と開放弦の豊かな響きを活かしたスラック・キー・ギターの和音は、此処京島にゆるやかに響き、たゆたう時間の流れを堪能させていただきました。

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5:07 PM permalink | comments (6) | trackbacks (0)

August 23, 2009
  フェルメールが描くリュートでノクターンを弾いてみることはできるのか

娘を稽古ごとに送ってゆく途中、区役所へ寄って期日前投票をしてまいりました。娘を送りとどけた後、迎えのときまで、書店で時間つぶしをすることに。ところが購入したかった2点を見つけたので早々にレジへ(わたくしのような変わり者が欲しいと思っていた本を2冊とも在庫している有隣堂さんは偉い)。そして時間がくるまでタリーズでページを捲っていたのでした。

・夜想曲集/カズオ・イシグロ著(早川書房刊)
・フェルメールの楽器 -音楽の新しい聴き方- /梅津時比古著(毎日新聞社刊)

「フェルメールの楽器」には、あの「トイピアノ」も所収されておりました。
ああ、藤倉大さんのピアノ協奏曲「アンペール」を実演で聴いてみたいなぁ。

11:59 PM permalink | comments (7) | trackbacks (0)

August 11, 2009
  その火は人々に守られ、豪雨に晒されても消えなかった

三鷹市美術ギャラリーの在るビルから駅へと渡るテラスへ出てみますと、雲はより厚くなって、空をより暗く覆っておりました。今にも雨が落ちてきそうな午後、わたくしはJR中央線で駅を3つほど新宿方向へ戻ったのでした。

荻窪駅北口を出まして右へ向きますとバラックのような建物からよい匂いの煙が立ち上がっております。昭和27年に創業と云われております「鳥もと」のことでございます。かつて駅の反対側、南荻窪に住んでおりましたころ、昼間から景気のよいガヤガヤとした雰囲気に誘われ何度か一杯やりに入ったことがございました。

駅の出入口のすぐ脇、線路沿いの一等地です。なんでこんなところに、と今では思われるでしょう。その「鳥もと」が駅前再開発の名の下に店を畳むとの噂を聞きましたので、東京に残った最後のいくつかもしれません、戦後、あるいは昭和の残滓を味わっておこうと、この日伺ったのでした。

ビールと一緒に注文しましたレバーとハツが運ばれましたころ、強い雨がバラックを叩きつけ始めました。店員はさっさと店前の半透明のビニールをくるくると下ろし雨除けをつくります(冬は風除けになる)。おもてに最も近い仮設カウンターで飲んでいらっしゃった浴衣姿で華のある姐さん二人は店員の勧めで二階の座敷席(! わたしは上がったことなし)へ案内されてゆきました。
外では時刻通り発着を繰り返す路線バス、傘を差し小走りに駈けてゆく人々、頭から肩へとビショビショに濡らしながらこの店へ飛び込んでくる人、わたくしは奥のカウンター席からこうした光景を眺めつつ、此処からの人やモノの動きはもう見ることはできなくなるのだなぁと感傷に耽りはじめ、2本目のビールを躊躇なく注文したのでした。

さて、店の方に窺いましたところ、此処での営業は8月29日までとのこと。9月からは駅前をさらに東にゆき、現在2号店を出している向かいに新店舗を開店させるのだそうです。肉を焼く「鳥もと」の火はまだまだ消えないようでなによりでございますが、荻窪駅前に流れました時代の記憶は、此処を訪れた者たちの心の内だけに静かに灯ってゆくことになりそうです。

11:15 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

July 23, 2009
  わたしを惑わす不気味な月よ、今宵だけはあの方の行かれる先を優しく照らしてあげてください。(2)

不気味な月で思い出したのは、もう15年程昔のこと。わたくしはある仕事のために軽井沢へ、自ら運転して向かっていたときのこと。
関越自動車道から藤岡で分岐し、通行できるようになったばかりの上越自動車道。深夜の移動でしたから、前後に他の車はまったく無く、ひとり、一台で走っていたのでした。
わたくしの行く真ん前に昇ったまん丸の月。周囲に光は無く、わたくしはその月に向かって飛び込んでゆくような錯覚に陥ったのでした。

berg090722.jpgそのとき、車内でかけていたCDは20世紀オペラの最高傑作と云われております、アルバン・ベルク作曲、「ヴォツェック」。
この車内の音楽の効果がいとも甚だしく、なんとも不気味な瞬間を味わったのでした。


(左の写真のアルバムがそのとき聴いておりました、
クリストフ・フォン・ドホナーニ指揮
ウィーン・フィルハーモニー
による「ヴォツェック」全曲盤(1979録音)。
- シェーンベルクのモノドラマ「期待」を併録 -


奥にあるのは同じコンビによる ベルクの「ルル」(1976録音)。)


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June 22, 2009
  偉大なる老翁によって成し得ること、成し得ないこと、(3)

ひとことで言い尽くせるような端的な理由はなかったのです。直前になって俄に臆病風に吹かれ、行くことをやめてしまいました5月16日のコンサート。シュナイト氏と神奈川フィルはこれ以降しばらく共演することがなくなるだろうというのに。

その最後になるかもしれないという舞台ではありましたが、わたくしにはどんな状況でありましょうとも音楽を音楽として判断する力は充分に備わっており、最後という単語が持つ特別な響きに惑わされ冷静な鑑賞ができなくなるとは考えませんでした。
もちろん音楽的には大きな期待感がございました。そして逆にその膨れ上がった期待がはずれた場合の失望も脳裏を過りましたが、このコンビへの信頼は、ここ最近の数少ないわたくしの経験だけでなく、(シュナイト氏が)音楽監督として就任する以前から(首席客演指揮者となった2002年頃より)両者が積み上げてきたベースがあってのことですから、そう容易く崩れるものではないとも思いました。ところが昨今日本の風土にうまく適応しきれなくなった(と非公式に窺っているのですが)シュナイト氏の健康状態は一番の気になるところではありました。
そう、正しくひとことでは云えないのです。自分のなかで混沌を築き上げたことによるサボタージュ。

先日のゲルハルト・ボッセ氏のこともあり、いかなる偉大な芸術家であっても寄る年波というのは避けられないことであり、だからこそ「今、聴くことができる」ことの大切さをあらためて思い知ったのでした。

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June 19, 2009
  偉大なる老翁によって成し得ること、成し得ないこと、(2)

今年3月まで神奈川フィルの音楽監督を務めておりましたハンス=マルティン・シュナイト氏も疑う余地なく偉大な指揮者の一人でございましょう。来年で傘寿となります氏には、まだまだ現役で頑張ってほしいものです。

さて、そのシュナイト氏のこと、もう一ト月を超えましたから書いてみることにいたします。
まだコートを羽織っておりました今年3月13日、シュナイト氏による最後の神奈川フィル定期公演に行きましたことは拙ブログでエントリーしておりましたが、これは定期演奏会の最後の出演でございまして、その後の5月には「シュナイト音楽堂」と題しましたシリーズの(最終)公演があったのでした。こちらこそシュナイト氏と神奈川フィルの一応区切れの公演(とするのは、今後も客演というかたちでの共演があるかもしれませんし、それを期待しておりますから)であったわけです。
その5月16日の公演につきましては、かなり以前から存じ上げており、楽しみにしていたのですが、直前に何とわたくしは臆病になって結局行かなかったのでした。

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June 18, 2009
  偉大なる老翁によって成し得ること、成し得ないこと、(1)

今月下旬には神奈川フィルの演奏会にて今春常任指揮者に就きました若きマエストロ、金聖響氏の2度目の定期公演があるのですが、今回はサボって、別のオーケストラへ。
ゲルハルト・ボッセ氏が客演指揮するとのことで東京都交響楽団のA定期公演(東京文化会館でのA公演と、サントリーホールでのB公演があるようです)6月19日分のチケットを買い求めたのでした。

ところで今月初めごろ、1通の手紙が都響から届き、よからぬ予感がしたのであります。なんとボッセ氏の体調不良により当日の指揮者変更の知らせだったのです。ボッセ氏は今年で87歳のご高齢であるにもかかわらず日本のオーケストラ、音楽推進のために彼方此方で活躍されている貴重な方です。この巨匠中の巨匠による指揮でのハイドンをたっぷりと堪能したくチケットを求めたので残念でなりませんが、御歳のことを考慮しますとこのようなこともある程度は念頭におくべきだったのでしょう。
代役はウィーンを中心にキャリアのあるミラン・トゥルコヴィッチという方だそうで、残薄な情報しか持っておりませんわたくしには初めて名を聞く指揮者ですが、ウィーン仕込みのハイドンの響きを楽しみたいと思っているのです。

そしてボッセ氏の1日も早いご快癒を願っております。

8:57 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

May 20, 2009
  天高く渡された水の道を

渋谷区猿楽町の路地を抜け代官山郵便局の脇より八幡通りへ、そして旧山手通りから鎗ケ崎交差点へ。駒沢通りを中目黒のほうへ下っていった先、記憶では目黒川を超えたところにスーパー・ダイエーがあったのでした。昭和40年代前半、ときおり近所の商店では揃わない日用品を購入しに、わたくしは母に手をひかれて其処へ訪れたことを憶えております。
鎗ケ崎交差点から目黒川までは下り坂、右手から代官山のトンネルを抜けてきた東急東横線が走ってまいりますと幼少の男の子ですから、それはもう興奮したものでした。

かつてこの下り坂の頭上には旧山手通りにほぼ沿っていた三田用水が、目黒川に向けて標高を落としてゆくこの駒沢通り上を水道橋にして水路を渡していたと、少し前に父、母から聞かされて呆然としたのでした。わたくしにはその水道橋の記憶がなかったからなのです。

もう先週のことになりますが、金曜深夜、日付は5月16日(土)00:15〜00:45の「タモリ倶楽部」では、あの「川の地図辞典」の版元、「之潮」さんの芳賀社長を交えて三度目となる川好き系企画「好評!都内歩いているだけ企画、三田用水のこん跡を巡る!」がオンエアされたのでした。
(先だってGWに芳賀社長にお会いした際にいただいた季刊Collegioの巻末、お知らせの項にちらと番組出演の紹介が為されておりました。)

放送では、鎗ケ崎交差点近くの水道橋、その在りし日の白黒写真が紹介されましたが、その画を見ても思い出すようなことはございませんでした。
幼少のわたくしにとりまして、彼の水道橋はあまりにも高いところを渡していたのでしょう。おそらく視界の及ばぬところ、空に近いところを。


関連エントリー
・MADCONNECTION: 「川好き系タモリ倶楽部 Vol.3

・東京クリップ: 「タモリ倶楽部川を歩く第3弾は三田用水

1:27 AM permalink | comments (6) | trackbacks (0)

May 4, 2009
  あの男はいまなにに乗っているのだろうか

若気の至りだったのでしょう、日本語のロックなんて一切認めておりませんでした。まだローリング・ストーンズがコンスタントに新作を発表しており、ピストルズやダムドさえ知ってしまったころ、この国の音楽にいったい何を求めればよかったのでしょうか。
それでもスローバラードという3拍子の日本語ロッカバラードを聴き、スローバラードが曲中歌のことを指していることに気づいてからは、その曲を歌う男たちの歌だけは信じていいと思ったことがございました。
その後時代はバブルの熱にうなされはじめ、わたくしは音楽の世界で仕事をするようになりましたが、もう反逆の精神だなんて過去の遺物でしかなくなって、ロックの姿も様変わりしてしまいましたが、それでもその男の歌だけはいつも尖っていて、社会との軋轢を彼ひとりだけが担っていたように思えます。
これすなわちこの国でロッカーは彼ひとりだったと。

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5:38 AM permalink | comments (8) | trackbacks (0)

March 7, 2009
  おもちゃのピアノって、ひどく悲しい音で響きませんか?

日頃、音楽の評論、評文をほとんど読みません。音楽家が書いた文章はおもしろく、こちらは読むことが好きなのですけれど、評論家の先生の文章は必要としていないと云いますより、あまり信用していないのが本音です。
そんな偏見を持つわたくしですが、最近(購読している)毎日新聞で音楽評や、コラムを書いていらっしゃる(同新聞社学芸部専門編集委員)梅津時比古氏の文章はなかなかおもしろく、楽しみにしているのです。

その梅津氏が夕刊で連載されているコラム、先週分はある地方都市でおこなわれたクラシック・コンサートのステージ評が掲載されたのでした。
仕事から帰宅し、遅い夕食をひとりで摂りつつ拝読したその回のコラムに、わたくしは涙が溢れそうになるほどひどく哀しい気分になったのでした。

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11:00 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

February 21, 2009
  移ろう時のなかで、もっとも輝く中秋の

カサンドラ・ウィルソンの代表的なアルバム「New Moon Daughter」に収められたニール・ヤングの名曲「Harvest Moon」はイメージを喚起する力の強い作品であるように思います。
たとえば小さなカフェの、通りに面した席で、雨が流れる窓の向こう、ときおり過ぎる濡れた路面を跳ね上げる車の音、酔人の嬌声、深夜に行き交う音の流れの向こうを。


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3:26 AM permalink | comments (7) | trackbacks (0)

August 20, 2008
  街に溢れる水の匂い(2)

夕立の降り始め、学校に通っていたころのプール、水にはそれぞれの匂いがあったことを思い出しました。沿道の方々による水のぶっかけ、消防の放水と、水びたしになりました道路から立ち昇る水の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、そのなかをびちゃびちゃ歩きまして、わたくしは清澄三丁目の交差点をあとに、森下駅へ向かいました。其処で、わたくしが深川を歩く際に、たいへん参考にさせていただいております「深川散策」の管理人さんであります、じんた堂さんと、そして「時差ボケ東京」のmasaさんとご一緒するために待ち合わせていたのでした。深川を歩くのにこれほど贅沢なことがありましょうか。このお二人と、森下より、バスに乗り、門前仲町を目指しましたが、いつもは永代通りを突っ切るバスも、この日はかなり手前、深川二丁目までしか運行していないようです。その先は、もちろん、幾許かの距離ですが徒歩で永代通りまで向かいました。

永代二丁目の交差点に着きますと、どうやら、まだ連合渡御の第一陣は来ていないようです。
ということは、と期待に永代橋方向を見やりますと、ゆっくりとこちらに向かってくる、神輿の集団ではない人々が見えてまいりました。紺地に襟肩から袖にかけて金赤の半纏。あれは木遣りではないですか、と仰るmasaさんの言葉に、はっといたしました。彼らはまさに木遣りの衆。じんた堂さんに由りますと、川並(かわなみ)と呼ばれました木場で筏を扱う者たちが歌い始めた、おそらくは労働歌がルーツでありましょう、その歌をうたいながら、こちらに向かってまいります。十二時に永代橋で連合渡御と合流、そして彼らを先導すると聞いておりました、その木遣りの衆の先導に間に合いましたこと、まことに運がよいと勝手に喜んでおりました。
そして木遣に続くは手古舞の姐さんがた。いま辰巳芸妓は絶えてしまいましたが、かつての芸妓さんの指導で手古舞の保存会があるようでございます。
木場の職人と、辰巳の芸妓、これぞ深川なのでしょう。わたくしの母も『下町だからねぇ、幼い頃は銭湯に行くのが楽しかったよ。女湯には芸妓の姐さんたちがたくさんいて、たまに父と一緒に男湯に入れば、こちらはこちらで、背中はもんもんだらけの木場の職人連中がいてねぇ、そりゃぁイキな処だったよ。(拙ブログ「運河と堀に囲まれた町」より)』と云っておりました。既に木場も、花街もございませんが、両者両所はこの土地の象徴として、人々の心に今も脈々と根付いているのかもしれません。

此処永代二丁目でも、消防のホースが待ち構えております。なにせ向かいは消防署なのですから。此処でのぶっかけ模様はmasaさんのエントリーに素晴らしい写真が掲載されております。
また場所を変え、ひとつ東側の交差点まで進んでみましたらトラックの荷台をプールにし、十数名の人たちがその荷台に乗り、ばっしゃばしゃバケツでぶっかけるシーンも壮絶でございました。こちらは、じんた堂さんのエントリー内に「こんな水かけ隊や、」という写真へのリンクがございます。いやはや、なんともご一緒させていただきながら、そのお二人におんぶにだっこのエントリーになってまいりましたが、最後は富岡様を越えまして、東冨橋へ至る交差点附近、其処は以西より少し土地が高くなっておりまして、西からやってくる神輿たちの縦列をかなり遠方まで見渡せる絶好のポイントでございました。これを見てしまいますと500ミリくらいの望遠レンズを仕込んで圧縮効果を使って撮りたくなってしまいますね。

祭りが幕引きとなるころ、既に人も街もびしょびしょに濡れた夕刻間際でございましたが、空の上からも大粒の雨が降ってまいりました。水道水の匂いは、たちまちのうちに雨の匂いへと変わり、それが祭りの終わりをこの街の彼方此方に知らせたように思えました。
そういえばカメラの水除け対策は施したものの、自分自身の水除けを忘れておりました。でも、まぁ、いいでしょう。わたくしはタオルを頭に捲き、傘を差すお二人の後ろから、地下鉄木場駅までのわずかな道を、祭りの余韻に浸る人々の間を、足早に抜けていったのでした。

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August 19, 2008
  街に溢れる水の匂い(1)

どうやら間に合ったようです。佃の埋設作業が始まるのを待たずに其処へ向かったのでした。
佃から、相生橋を渡れば、其処は越中島、その先はもう門前仲町で深川の中心街となりますが、わたくしは地下鉄大江戸線にて、モンナカを通過し、そのひとつ先の清澄白川までやってまいりました。清澄通りを少し南にゆきますと、東からやってくる資料館通りがございます。その通りこそ、七時半に永代通り、富岡八幡宮を出発しました神輿、その数、今年は全部で五十五基が一時休止をとる場所であるのです。清澄通り沿道の商店からはホースを伸ばし、歩道上にポリの樽を置き、せっせと水をくべております。それは彼の行為のために。
いまや深川という地域に留まらない、東京の祭りのひとつに数えられます富岡様の例祭、その三年に一度の本祭りのメインイベントとも云うべき、この氏子各町が繰り出す神輿を縦列して、深川一帯そして、隅田川対岸の箱崎、新川と廻り、永代橋を渡り、再び深川に戻り、富岡様へと帰ってくる「連合渡御」、その神輿の先頭は、まだ到着していないようでした。
この祭りは、水かけ祭りでありまして、沿道の方たちが水を用意していたのは、やってくる神輿、そして担ぎ手たちに威勢よく、水をぶっかけるためであります。わたくしもそのような中で撮影をするために前夜にわかに拵えた水除け(レインコートの袖を切り、手首を通すゴム部分をレンズの胴に、そしてファインダー部は覗けるように穴を開けておいたもの)をカメラにとおしていますと、資料館通りが色めいてまいりました。

やってきました、連合渡御の先頭が、氏子内、通常五十四基の神輿に、今年は奥州平泉から参加した一基を加えた全五十五基

今年は奥州平泉(岩手県平泉市)の神輿が参加することも話題の一つ。これは平成7年、平泉900年を祝う平泉祭に深川の神輿を披露したのが縁で、以来毎年7月の平泉水掛け神輿は平泉の名物行事になりました。そして今回連合渡御に始めて参加することに。(富岡八幡宮HP:8月17日神輿連合渡御 より引用)


は、相撲番付に似せ(階級分けはない)出発順を記しました駒番表に則り担ぎ出されるのですが、今年の第一番、三好三丁目四丁目の組が資料館通りのもっとも西側に着き、神輿を台座に下ろしました。比較的幅の狭い道路にひしめく担ぎ手たちと、彼ら彼女らの興奮と熱気、そして半纏から滴り落ちる水気で、息苦しいほどです。わたくしは一時の後、場所を移動し、清澄通りと清洲橋通りが交わる清澄三丁目の交差点近くで待機することにいたしました。沿道には多くの人が集まり始めております。
再び連合渡御の出発となり、神輿は順に従い、清澄通りを北へ向かってまいります。此処清澄三丁目の交差点で、神輿は左に曲がり、隅田川を清洲橋で越えるため西へと向かいます。此方彼方でバケツの水をかけられる神輿と担ぎ手ですが、この交差点ではさらに消防隊によります消火栓から引いた水の放射を浴びることになるのです。この水で興奮はさらに増し、神輿をうねらせ、そしてぐるぐると回り始める組も少なくありません。締めは腕を上に伸ばした位置まで神輿を高々と上げ、静止。これらは舞い上げ、差し上げと呼ばれているようです。そのような神輿にはひときわ大きな歓声と拍手が起こります。

さて、この連合渡御ですが、全長およそ8キロほどを練り歩くことになりますので、交代交代で、担ぎ手にはかなりの人的余裕が必要になります。ところでこの日は、猛暑が続きました東京につかの間の涼しい一日でありました。担いでいる最中、炎天下の日に比べてずいぶんと楽だったのではないでしょうか。反面、担ぎ終えて一旦組の後ろに回った方のなかには、少し寒そうにしている様子もうかがえたほどです。身体を冷やしすぎて風邪などひかれないとよいなと、他人事ではないような心地でございました。

一時間半ほど、そこにいたでしょうか、全ての神輿を見送る少し前に、わたくしは待ち合わせの場所まで移動することにいたしました。

(上記引用ページ、および連合渡御のルート参照:URL

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August 17, 2008
  住吉様の祭り

それらは盂蘭盆のころには既に佃小橋の両詰めに四箇所、そして小橋から隅田川に向かう此処のメインストリートの先、土手沿いに二箇所のあわせて六箇所に組まれ、設置されておりました。
佃の住吉様の三年にひとたびやって参ります本祭りのための幟旗をあげるための、それはそれは巨大な幟でして、確実に隅田川対岸の湊からは、そしてかつては恐らく築地本願寺あたりからでも優に見えたでありましょう、壮麗な幟、それらを掲げる旗竿を支えるよう組まれました基部。それらの非日常的な姿、それでも使い込まれた感のありますするりとした木の肌に親和感を覚えるほどのものがございました。
これらの基部を為す木材は、祭りの前の大潮の日、佃の掘割から掘り出され、そうして祭りに備えるのだそうです。そういえば江東区の和舟の船頭さんが仰っておりました。木は海水に浸けておくことで長くもつと。この木材たち、いったいどのくらい昔から使われているのでしょうか。まさか江戸のころからでしょうか。

さて、住吉様の祭りに一緒にと、ご近所ブログの方に誘われたのですが、生憎八月の二日には別の用事がございまして、まことに残念ながらご辞退申しあげたのですが、辞する旨をお伝えしたら急に佃が殊更に愛おしくなりまして八月一日に茅場町へ用事で出たあと、午後の暑い日差しを浴びる幟旗の下へ、ひとり、立っていたのでした。あちらでもこちらでも、まだ忙しく準備に奔走する人々を見かけ、たまらないものがこみ上げ、実際目頭があつくなってきてしまい困ったものでした。

残念至極な日を挟み、八月三日早朝。始発電車で佃へ向かい、船渡御、すなわち氏子地域を廻るため神輿を筏に載せて川をゆく行事を見せていただくため隅田川に架かります佃大橋上へとゆきました。遠くからではあまり事の成りゆきは判りませぬが、粛々と行なわれる神事を待ち、そして筏が岸を離れますと橋の上におります多くの人々から拍手がおこりました。(水上警察だか、消防の船が亀島川河口近くから、色つきの水を放水していたのは、祝賀の意味をこめていたと云えども、なんとも垢抜けないことのように感じましたが、、、)神輿の上に載りました鳳凰が川の風を浴びて、心地よさそうに尾を揺らす様が、長いレンズの先に見えてまいりました。
この日、仕事があったため神輿を載せた筏が勝鬨のほうへ下ってゆくのを見届け佃を離れたのでした。


半月ほど経ちました八月十七日。この日は大潮。佃小橋の下の掘割も水が大きく引くこの日にあわせ、あの大きな幟旗を支えた基部の木材を堀の下へ埋める作業があるとのことで、予定時刻の八時、その少し前に、またまた佃に現れてみましたが、職人さんの話しによれば、今日は潮の引きが遅いと、実作業は九時からかなぁとのこと。それでも堀に浮く、筏状に並べられた木材のうえに塩をまき、御神酒を堀に注ぐ様子(決して神主さんがやってきて粛々と行なうのではなく、職人たちがまるで堀にホースを降ろし、筏のロープを調整するかのごとく、一連の作業の流れの中で行なわれたのでした。)を見ていましたら重機がやってまいりました。このクレーン車で筏を吊り上げるのでしょう。掘りを区切りました埋める処からもポンプを使い水を強制的に排出する作業も始まりましたが、わたくしはこの日訪れる、もうひとつの場所へ向かうために、これまた残念ではございましたが、佃の掘りをあとにしたのでした。

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August 15, 2008
  いま、ひびく歌たち

ベルリオーズ(エクトル・ベルリオーズ 1803~1869)という作曲家は、わたくしにとって、彼の作品14「幻想交響曲-ある芸術家の生活のエピソード」を十代最後の年に初めて聴いて以来、特別な作曲家となりました。19世紀に花開いたロマン派音楽、その最前衛の作曲家であった彼の管弦楽法は、後のマーラーやR・シュトラウスに与えた影響も大きく、彩り豊かな彼の管弦楽に魅了させられた人は数知れないでしょう。
今夜は彼の作品の中でもひときわ巨大な、作品5「死者のための大ミサ曲-レクイエム」を聴いております。
レクイエムと云えば、モーツァルトや、イタリアの大オペラ作曲家、ジュゼッペ・ベルディを思い起こす方が多いと思いますが、ベルリオーズによるレクイエムも記念碑的大作でありまして、8名10組のティンパニーが加わる大管弦楽、テノール独唱と混声合唱、そして4組の小編成金管楽器隊を会場の4隅に配置させることが指示されております。

わたくしはレヴァイン指揮、ベルリンフィルのものと、もう一組、コリン・デイヴィス指揮、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団演奏のCDを所有しておりますが、今夜は後者を選択。
ベルリオーズという作曲家を現代におきまして再認知させた功労者でありますデイヴィスは1969年にもロンドン交響楽団とこの曲を録音しておりますが、ドレスデンとの盤は、1994年2月14日、すなわち第二次世界大戦中、連合国軍の空襲により十万人前後の犠牲者を出したドレスデン爆撃、その五十周年を翌年に控えた日に、英国を代表する指揮者が、ドイツを代表するオーケストラを振った歴史的な演奏会を収録したものです。

わたくしにとって戦争とは、父母、そして祖父母が経験した空襲の話しがもっとも重い意味を持って根付いております。
空襲がひどくなり、門前仲町2丁目の母は静岡の沼津に疎開させられましたが、そちらにも爆弾が落ちてくる日が多くなり、次には栃木に移ったそうです。モンナカに残っていた祖母は如何にして戦禍のなか逃げてきたのか、彼女から繰り返し話しを聞かされたのは、もう遠い昔のこと。戦後、深川に戻ってみれば、一面焼け野原。結局戦後は亀久橋近く、平野へ住を移したのだそうです。

単に巨大で爆発的なエネルギーに支えられた管弦楽だけでなく、繊細な対位法ラインを形作るベルリオーズのレクイエムの合唱に耳を集中していますと、今夜のわたくしの脳裏には、いまや東京のどことも変わらぬ、門前仲町から平野までの景色が思い起こされます。
折しもあれ、深川は富岡様の例祭の時期。今年は三年に一度の本祭り。17日には神輿連合渡行と云い五十五基の大神輿が連なって氏子各町を練り歩く圧巻の行事が待っております。もちろんLacrymosaの美しいメロディより、わっしょいという怒号と伝統的な木遣歌のほうが深川の町にはお似合いであることは云うまでもございません。

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August 13, 2008
  いま、そこに咲く花(18)

袖擦宵景の宵

蒸し暑さが続いた梅雨明けのころ、めずらしく心地よい風に桜木の葉がそよぐ宵、わたくしはいつもの道(これと、これ)を経て、神楽坂へと向かいました。
熱海湯脇の路地階段で、これもまたいつものように三脚を立て、そして既に知っている露出値に写真機をセットし、人が来るのを待ちます。此処に飽きると、写真機を仕舞い、そして移動。和可菜の前でまた同じように。

昨年も撮影をしました「袖擦宵景」、そのイメージを再び具現化するために、浴衣姿の人々が多く集まるほおづき市のある晩(今年は7月23日、24日に開催)に出かけていったのでした。ほんとうは二日間あるほおづき市の両日とも撮影に出かけたかったのですが、二日目は仕事を抜けることが叶わないことを予め判っておりましたから、一日目だけ、昨年から増長したイメージを収めるために集中して臨むことになりました。
引伸ばしプリントをおこなう時間をまったくつくれていないのですが、それでもこうして撮影だけは行なっているのでした。


(参考エントリー)
平成19年9月6日 / いま、そこに咲く花(6)/ 袖擦宵景(1)

平成19年9月14日 / いま、そこに咲く花(8)/ 袖擦宵景(2)

平成19年9月20日 / いま、そこに咲く花(10)/ 袖擦宵景(3)

平成19年9月26日 / いま、そこに咲く花(12)/ 袖擦宵景(4)


拙ブログでの神楽坂の話題は、サイト内検索(右列下部にございます)にて「いま、そこに咲く花」のワードで引いてくださいませ。

6:39 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

July 16, 2008
  精霊棚に手を合わして

月日は百代の過客なので、ああもう、あれから1年が経ってしまったのだと呆気に取られることが多くなってまいりました。
佃島へゆきますと、今年は住吉様の例祭が3年に一度の本祭りであることから、お社を中心として、1丁目町内、殊に佃掘りの周囲は、その準備が進んでいるようです。
普段から静かなこの町内が、神聖な雰囲気に包まれてゆくなか、東京では唯一、念仏踊りの様を残す、此処の盆踊りを見に、13日からの3夜連続で行なわれるうち、14日にほんの少しだけ、そして15日にたっぷりと、ここの住民の方々によってたいせつに執り行なわれる祭りを、そおっと楽しませてもらいました。
まず、しなくてはいけなかったことは精霊棚の無縁仏に手を合わせることでした。


そして踊りの様子をたくさん写真におさめてきたのですが、それはまた後日、紹介できるものがあればエントリーしたく考えております。
それまでは、しばし、昨年のエントリーをご参考にしていただきたく思います。

・平成19年7月15日エントリー「佃島

・平成19年7月19日エントリー「人も草木も盛りが花よ(1)

・平成19年7月21日エントリー「人も草木も盛りが花よ(2)

・平成19年7月23日エントリー「人も草木も盛りが花よ(3)


因みに、上記「佃島」のエントリーへ話しをもってゆくための導入部(笑)、「祖父の顔、祖父の写真」、「日本橋魚河岸」も、お時間のある方はどうぞご覧くださいませ。

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July 5, 2008
  浄化を表す響き

多忙を言い訳に、このブログの更新を一月以上もサボっていました。
文章を書くということに、まったく集中力を維持できなかったのです。そのような時期に、わたしくしを癒し続けてくれたのは、R・シュトラウスのオペラでした。

リヒャルト・シュトラウス

この19世紀後半から、20世紀前半に架けて活躍した作曲家、一般的にはキューブリックが映画化した「2001年宇宙の旅」で使用された「ツァラトストラはかく語りき」の導入部の音楽がもっとも有名でしょう。それでもこの曲からは、彼の音楽の魅力のほんの一部しか表れていないのです。
彼は、この曲のような交響詩というジャンルをキャリアの前半に書きまくりましたが、後年は、ひたすらオペラの作曲に精を出すことになります。
過剰な言葉と、こってりと美しい旋律、豊穣なオーケストラ。20世紀中盤になっても、19世紀を引き摺ったようなスタイルを貫き通した彼の曲は、保守的かもしれませんが、抗えない美しさに満ちているのです。
一幕あたり、およそ60分前後の長さは、通勤時のBGに適しておりまして、毎日の電車のなかで、リーザ・デラ・カーザ、ヒルデ・ギューデン、グンドラ・ヤノヴィッツ、ルチア・ポップやディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの歌声を聴きながら「薔薇の騎士」「アラベラ」「ダフネ」「カプリッチョ」などを取替えひっかえ聴き続けておりました。

7月にはいって、ようやっと落ち着いてきた感がありましたが、本日も通勤。
ところで今朝選んだ楽曲は、一気に時代を遡り、18世紀へ。モーツァルトの美しい宗教曲、「ハ短調の大ミサ曲」でした。悲壮なキリエで始まる、このミサ曲を聴くと、心洗われるような気持ちになるのです。
そのような気分を味わいたくなったのは、ひとえに前の晩の体験が因を為しておりました。


普段番組表も見ないわたくしですが、iGaさんのMADCONNECTIONを拝読していましたら、これは見なければ、という番組が紹介されておりました。

NHK教育テレビ「芸術劇場」にて、スティーヴ・ライヒの特集、すなわち情報系コーナーと、来日コンサート・ライブ、そしてスタジオ収録のライブが用意されていたのです。
10年と少し前、1996年、わたくしはライヒ氏の実演を観に、常磐自動車道を経て、水戸まで、かの地の芸術館コンサートホールまで出かけていったのでした。そのときは「クラッピング・ミュージック」「ドラミング」「六重奏曲」「ピアノ・フェイズ」、そして古典四重奏団による「ディファレント・トレインズ」を楽しんだのですが、そのとき、どの曲においても、わたくしは、音が発せられた後に来るディケイまたはリリース、すなわち減衰してゆく音が、いかに次の音(のアタック)によってかき消されるのか、また和音の推移によっていかなる共鳴のうねりが生じるのかといったことばかり聴いていたように憶えております。そしてそれがミニマル・ミュージックと呼ばれるジャンルの音楽の楽しみ方の唯一の方法(もちろんそれが唯一の鑑賞法でないことは明白ですが、当時のわたくしは理解不足でした)であるとも思っておりました。

ところで、昨日の番組内、本年5月に来日した彼のコンサートライブ、では、日本初演となった最新作「ダニエル・ヴァリエーションズ」が披露されました。
弦楽四重奏に、鍵盤パーカッション類、3台のピアノに声楽を伴ったこの新曲。痛々しい響きが、最終章で浄化されてゆくように立ち昇っていったことに瑞々しい感動を覚えました。この曲、テロリストによって殺害されたアメリカ人記者・ダニエル・パールの言葉と、旧約聖書のダニエルの書によるテキストを創造の根幹としているのですが、このような響きがライヒの音楽にもあるのだと、あらためて、氏の創造性の豊かさを感じるとともに、ミニマル・ミュージックの真価と進化を認めることができた貴重な時間でした。

今朝、モーツァルトのミサ曲を選んだのは、その「浄化」というキーワードを引き摺っていたため。まったく異なる時代の、異なるアプローチの音楽でもってその気分を再び感じ入ったのですが、音楽というものは、百家百首とでもいうように、幅が広く、奥が深いものであると、あらためて思ったのでした。
そう、そういえば、リヒャルト・シュトラウスのオペラ「ダフネ」のフィナーレも、最後は月桂樹だけが歌うのです、という作曲者の言葉どおり、ダフネは、欲望の虜となったアポロの悔恨の念を受け入れ、自らの気持ちを純化し、そのダフネの心の浄化を象徴するがごとく月桂樹に変容を遂げてゆくのでした。

・わたくしの大好きなブログ、mbさんによるmemorandaにもライヒ氏の番組が記事となっておりました。

・「ダニエル・ヴァリエーションズ」に感動を覚えたのは、わたくしだけではなく、af_blogのfuRuさんも、なんて素敵なことでしょうか、涙溢れるほど心を動かされたようでございます。


※7月6日追記:上記本文にて『弦楽四重奏に、鍵盤パーカッション類、3台のピアノに声楽を伴ったこの新曲』と、ダニエル・ヴァリエーションズの楽器編成を記したのですが、iGaさんのエントリーに追加で挿入されたクリップ画像を拝見するに、ピアノは4台でありました。あと木管2本ね(これは憶えていたのですけどね...)。

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May 25, 2008
  それを開くと、あらたな世界が広がって、、、(3)

根岸に訪れてみたいと思ったのでした。もう1年以上前のことになります。
東京都台東区の北部に、根岸という町があり、そこの一部は戦災から免れたのだと聞いたからでございました。
そういった街ならば、幾人もの方々がカメラを持って訪れているでしょうと、まずはネットで検索をしてみましたら、いやいや沢山のページに出会いまして、根岸に関しまして、にわか耳年増ならぬ、目年増、いや、モニター画面年増状態(?)。もう半ば行ったも同然のような心地でして、仮想世界の落とし穴でございましょうか、かなりお腹いっぱいに満足な状態になったものでした。

ところが、そのようなわたくしの襟をただし、背筋をぴんと伸ばさせるようなブログが目に飛び込んでまいりました。

圧倒的にクオリティの高い写真。その1枚1枚に目を凝らしました。これはもしや専門の方による写真ではないかと、根岸に限らず、浅草や上野、根津に谷中、本郷と、その方のページをめくりにめくったのでした。
写真が素晴らしいと、文章にも俄然興味が湧きます。いろいろと読み進めますと、この方、単に街を歩いて写真を撮ってさようなら、ではなく、そこの街の方々と交わり、話しをし、アップされた写真のバックグラウンドをきちんと、取材という薄っぺらい行為以上に、コミュニケートすることで紹介されているところが、心のある写真になっている所以だと知ったのでした。
以来、大のファンになってしまったのですが、これが、昨今、たいへんお世話になっている「Kai-Wai散策さん」と、わたくしの、まずは一方通行の出会いだったのでございます。

11:28 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

  それを開くと、あらたな世界が広がって、、、(2)

前回、「誰も示していない世界を創造する」ことは、表現行為の前提であると記しました。音楽に限らず、写真においても、今まで誰も見たことがない世界を、世界観を、写すこと。わたくしは写真を撮り始めた当初から、このことを目指しておりました。

ところが、具体的な映像イメージを伴わず、ただ「誰も見たことがない」という言葉だけがぐるぐると頭の中を廻るだけの期間がすいぶんと長くございました。
世界のありとあらゆるものは既に写真に撮られているのです。それでも「誰も見たことがない」事象を写すことは可能なのだろうかと、何度も絶望的な気持ちになりました。
ところが昨今、わたくしなりの表現が可能かもしれないという感触があるのです。
ここに至るには、写真の世界とはかけ離れた、文学や、音楽、または人々の話し、そういったものの中から少しづつヒントが見えてくるようになりまして、あるアプローチによって、とある事実と、とある現象をつなぎ合わせ、わたくしの心象を表すことが可能なように思えるのであります。
わたくしの作品づくりはここにきて、ようやっと具体性をおびることになりました。完成には、またしばらくの時間が掛かることでしょうが、日々の喘ぎにも具体性が伴う分、解決への道筋も見えていることになり、虚空を掴むような状態でないことが随分と楽に感じられます。

これは、あくまでもわたくしの場合ですが、表現を為す人は、多かれ少なかれ斯様な自己との戦いを経て、作品を、誰も示していない世界を創造する行為から、生み出していっているのではないでしょうか。

6:52 AM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

May 24, 2008
  それを開くと、あらたな世界が広がって、、、(1)

中学校の音楽の授業で、音楽の三要素としてメロディ、リズム、ハーモニーが在ると教えられました。これは音楽を支えるシステムとして、現在、各地域の伝統音楽を除き、全世界的に広まっている西洋音楽の手法の根幹にあたるわけですが、そのうちのハーモニーに着目して西洋音楽史をみてゆくと、たいへん面白いのです。ここではその興味深い歴史を振り返る余裕がございませんが、現代音楽と呼ばれるジャンルが、なぜ聴衆の不人気にもかかわらず、あのような難しい音楽を書き続けるのかという、謎(やはり一般的には謎でありましょう)が、あたかも霧が晴れたように、すうっと解明されたのであります。
そういった、不人気であっても推進する創造行為が必ずしも正しい姿であるとは決して申しません。むしろ、もっとなんとかならないものかと、わたし自身、作曲行為など真似できない立場でありながらも、苦言を呈するのでありますが、基本的なところでは、うんうん、そうなんだよねと納得しているのです。それは表現たるものは「誰も示していない世界を創造しなければならない」という前提に対してであります。

この「誰も示していない世界を創造しなければならない」ことは、一般的になかなか理解されないようでございますが、音楽の世界にかかわらず、芸術行為全般にわたっての前提であることは表現者共通の認識であると思います。もちろん写真の世界もしかりであります。
好きだからローリング・ストーンズのコピー・バンドやっているんだ、という趣味の世界とは、どちらが良いとか、悪いではなく、一線を画す行為になるわけです。

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May 17, 2008
  妻の懐妊を望むあまりに大公はそれを贈った

ティツィアーノ・ヴェチェッリオを見にゆきました。後にウルビーノ公となるグイドバルド・デラ・ロヴェーレが妻のために依頼したプライベートな作品が、およそ500年の後、ユーラシア大陸の東の果てのその先の島国で、巨大なポスターとなってあちらこちらに貼り出される破廉恥に、大公も画家も草葉の陰で仰天しているだろうという思いは、まったくMADCONNECTIONのiGaさんに同感なのです。
そのティツィアーノによる「ウルビーノのヴィーナス (Venere d'Urbino 1538年)」、こういったものは実際の目に焼き付けなければ、駅構内で乳房をさらした巨大ポスターをもってしてもその魅力はまったく伝わってこないと、展示終了間近(5月18日まで)にようやっと上野の山に登ったのでした。

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May 2, 2008
  うつくしい本たち

柳橋を撮影対象としましてから、興味を覚え、そして読みました幸田文さんの「流れる」。その文体にすっかり惚れ、その後いくつかの彼女の小説、随筆を読みました。幸田さんの本は、装丁が美しく、所有するのは文庫ではなく、是非単行本だと、そして「きもの」という作品は殊更にその思いが強く、美本を求めて、まだ手にしていなかったのであります。

先日neonさんの、nidoとのコラボ作品展に伺いましたとき、折しもあれ、谷根千界隈では、一箱古本市が開催されておりまして、わたくしの読書にかかせない情報をくださる、じんた堂さんも出品されておりました。
じんた堂さんの一箱のお店には、なんと新刊書であります「川の地図辞典」も置かれていました。傍らにはちらしも用意されている周到ぶりに驚き、そして喜ばしい気持ちへと導かれたのでした。


さて、じんた堂さんの一箱には、お父さんの趣味本として、戦前戦後のカメラの本、2眼レフを紹介する本であったり、写真(撮影技)術の本がございました。中味を拝見しますと、そんな時代の本とは思えないようなきれいな図、写真が挿されており、驚嘆したのですが、それらお父さんの趣味本は購入せず、お母さんの趣味本として出品されておりました幸田文さんの「きもの」がとてもきれいでしたので、これはセットで読んでくださいと仰るじんた堂さんの推薦の言葉に釣られまして、露伴の孫、文の子である、青木玉さんと、京都の染屋、吉岡幸雄氏との対談本「きもの暮らし(PHP研究所刊)」を併せて購入してまいりました。ちょうど玉子さんの「小石川の家」を読み終えたところでしたので、気分も盛り上がり、読書を進められそうでございます。


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それにしても、文、玉、両氏の本はほんとうにきれいです。次には玉子さんが、母・文が遺した着物を手にし、再び活きた美しい着物となってゆくことを記したそうな「幸田文の箪笥の引き出し」を是非手にしたいと考えているのです。
ところで、じんた堂さんには御土産というにはもったいないほどの品をいただいてしまい、お世話になってしまったのでした。ありがとうございました。


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May 1, 2008
  遅々として、すすめすすめ(3)

そういえば、「遅々として、すすめすすめ」というシリーズのエントリーが途中でございました。
所用を終え、中板橋駅に戻ってきましたわたくしは、昼どきの空腹を堪えきれず、ここで食事を摂ることにいたしました。踏み切りを渡りました駅北側は賑わった商店街になっておりましたので、きっとなにかあるであろうとウロウロしておりますと古着屋を発見。おもわず500円でGジャンを衝動買いしてしまいました。決して高円寺や下北沢にあるような古着屋を想像してはいけません。ここは中板橋、「なかいた」商店街なのですから。そして店の奥には和服もたくさん掛かっていまして、時間があるとき、再訪してみたい店なのでございます。
さて、寄り道をしてしまいましたが、よさそうな食事処はすぐに見つかりました。店の前で、キムチやナムルを売っている韓国料理屋さんからよい匂いが香ってきたのですから。
店内には子連れのお母さん二組、そして恐らくはリタイア後の余生を楽しんでいらっしゃるような二人組みのオジサン。お母さんたちははしゃぐ子供を気にしてオジサンたちに謝っていらっしゃいますが、オジサンたち、ひとりは瓶ピール、もうひとりはチューハイと昼から景気よく、子供は元気が良いのが一番とにこやかです。そんなほのぼのとした店内の雰囲気に心地よさを覚え、わたくしは半熟の目玉焼きがのったキムチチャーハンをいただき、おいしいお昼のひとときを過ごしたのでした。
食後は爛漫に咲くさくらを見に、石神井川のほとりへ。深く掘られ、コンクリートに固められた護岸。都内のどことも変わらぬ川風景。すこし上流にはほぼ90度に川が折れ曲がるところが見え、神田川の大曲を思い出したのです。
ここから西に、環状7号も超えますと、常盤台という街に至ります。其処も散歩するには楽しそうな住宅地のようですので、機会あれば訪れてみたいと、あまり詳しくない板橋区の有様に興味が芽生え始めたのでした。

(了)

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April 24, 2008
  遅々として、すすめすすめ(2)

平日のお昼どき、郊外へ向かう各駅停車の車内はすこぶる空いておりましたが、空いた席に腰を下ろさず、ドアの傍で車窓からの景色を眺めやっておりますと、この沿線、殊の外、さくらが多く見えることが印象的でございました。葉に覆われてしまったり、葉も落ちてしまった季節ならば気付かなかったでしょう。爛漫に咲き誇るこの時期であったからこその、いっときの至福でございました。
さて、池袋を経った各駅停車は、ほどなく中板橋駅に到着いたしました。

用事は駅の南側、川越街道のほうへ向かったところでしたが、ああ、此処は近くを流れる石神井川から水を引いた水路でもあったのではないかしらと思えるような道があったり、こんもりとした丘状の頂上に立派なお屋敷が建ち、おそらくかつてはこのあたりの名主さんだったのではなかろうかと、思いを馳せながら、目的地までの道のりを楽しんだのでした。


(続く)

1:41 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

April 23, 2008
  遅々として、すすめすすめ(1)

多忙を理由に、更新をサボっております。それでもアクセスカウンターは徐々に徐々にカウントを重ねていることに焦燥の念を禁じえなくなりましたので、すこしづつ書いてゆこうと思っております。

この有様でございますから、話しは、少し前のことになります。まさに桜花が最盛のころのことです。
所用がございまして、普段あまり馴染みがございません中板橋というところまでゆくことになりました。これまた馴染みのない東武東上線に乗り池袋駅を出発いたしますと、普段電車の車窓からの景色といえば高架か、地下か、極端な位置からしか見ていないことを意識いたしました。もっとも地下を走る電車からは、コンクリートの壁しか見えないのではございますが。

(続く)

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April 7, 2008
  散りゆく桜花に、もんじゃと佃煮。

佃小橋・西詰めのさくらは、枝垂桜であったと、佃に訪れて間もないわたくしは、昨日はじめて気付いたのでした。

もんじゃを食べにゆこうよ、と娘を半ば強引に誘い、ふたりで月島西仲通り商店街へ繰り出しました。折しも地元の方々によります「花まつり」が行なわれており、鼓笛隊などが商店街をパレードしておりました
日頃テレビを見る習慣がないものですから、すっかり忘れておりましたが、既にこの4月から始まっております新しい連続テレビ小説の舞台が、月島、佃島であったのでした。そのドラマを見て、この週末はと繰り出す人々で賑わっているのかな、と思いきや、左程ではございませんで、いつもの週末の人出くらいであったでしょうか。

食後は、これは高速道路? と尋ねる娘に、これは川を越える橋だよ、ついでにあっちの道路も越えて、、、と応えながら、佃大橋をくぐり、佃1丁目へ。
佃掘の端を見せ、川の終点だよと教えるも、娘の興味は、そこに隣接する児童公園にあるようで、滑り台、ぶらんこ、シーソー、鉄棒、そして檻で囲まれた砂場と、ひととおり遊んでゆくのでした。遊具に飽きますと今度は、散った桜のはなびらを小さな掌いっぱいに集め、それを佃掘へ、紙ふぶきでも投げるかのように舞わせて遊びはじめました。
桜花は、もう半ば散っており、満開の美しさを望めないのは百も承知ではございましたが、それでも尾崎波除稲荷脇の1本だけはちょうど良い加減で、娘を遊ばせたまま、わたくしはその木の下のベンチで、穏やかな陽を浴びて寛ぐよい時間を過ごしたのでした。

実家の父がうまい佃煮を食べたいと云っていたのを思い出し、うちの、と云いますか、わたくしの分と併せて、今回は丸久さんで「はぜ」のものを一ト掬い、いただいてきました。
佃煮は、もちろん熱々のご飯との相性は云うまでもございませんが、わたくしは、つけたお銚子の友にするのでいけません。

そして階段を昇り、隅田川へ。娘ははじめて見るのでしょう、日曜ですから仕事の船はいなかったものの、屋形船、水上バス、個人のクルーザーや小さな釣り船など、たくさんの船が往来する川。
娘は、昨年、通っている体操クラブの(親は同行しない)1日キャンプ(遠足?)で、横須賀の猿島へ行ったとき、渡しの船(高速船)が相当気にいったらしく、以来船好きになったのは、やはりわたくしの血をひいているからでしょうか。
そんな娘には、今度機会があれば、人生スピードだけじゃぁないんだよと、和舟に乗せようとけしかけているのです。

11:27 PM permalink | comments (10) | trackbacks (0)

April 4, 2008
  くるくるころころと、

両脇をビルに囲まれた交通量の多い坂道。そこを登っておりますと、いまさっき、わたくしが越えた交差点の信号が赤にでもなったのでございましょう、車の流れが途切れたのです。
その刹那、ぴゅううっと一陣の風が坂道を駆け上ってまいりました。
すると同時に外濠公園から吹雪いた、許多のそめいよしののはなびらが、くるくるころころと、薄桃のからだを縦にし、まるで小さな小さな車輪のように、くるくるころころと、列を成して、上り坂を回転しながら、わたくしの足下を超えてゆきました。
春の風は、そんな楽しい光景を運んできてくれたのでした。

2:25 AM permalink | comments (6) | trackbacks (0)

March 24, 2008
  むらさき

すこしの寒さが戻ったり、暖かい雨が降ったり、そして強い風に顔を背けたりした平日を過ごし、先週に引き続きうららかな週末を迎えました。
うちの前の白木蓮の花はもうほとんどが散ってしまいましたが、街なかのさくらはいくつかの枝に、元気な花をつかせ始めました。

毎日新聞の土曜夕刊(東京版)に「訪ねたい」という特集連載がございます。22日は「和歌山・湯浅 香り立ちのぼる醤油のふるさと」という、和歌山市より南へ、直線距離で20キロほどでしょうか、町内に熊野古道が通る町を紹介しておりました。
リンクしましたウェブ・ページはテキストだけで残念なのですが、紙面には街中の写真もございまして、広川と山田川に挟まれた地区に、重要伝統的建造物群保存地区というのがあるようです。拝見するに、なるほどこれはまるで明治のころの街並みと思わせるような一画が写っております。
こういうところは、ちょっと博物館のようで、訪れてみるだけの感興がわかないのでございますが、それでも此処には、現在も生きた生活が営まれておりますし、その中心的役割を果たしているのが、記事のタイトルにもございます醤油の醸造元「角長」。天保のころの創業で、いまも手作りで製造していらっしゃるとのこと。
これを読んで、明治のころからの手法で、おなじく醤油をつくっている関東の醸造元のことを思い出したのです。

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March 18, 2008
  春うらら、「川の地図辞典」出版記念ウォーク

うららかな天気に恵まれた週末。
いつもお世話になっておりますKai-Wai散策さんにて「川の地図辞典」が話題となりましたのは、今年にはいってすぐのことでした。地図数奇、水路数奇のわたくしも同じタイトルで、1月9日にエントリーさせていただきました。
この必携本の出版社である之潮さんがこのたび素敵なプランを企ててくださり、それに参加をしてきたのでした。

なんとこの「川の地図辞典」の著者である、菅原健二さんを案内人に、谷田川跡を歩くというのです。

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March 14, 2008
  桃の園近く、再び咲いた菜の花(5)

旧桃園川緑道を阿佐ヶ谷方面より、旧西原橋、旧宮下橋、旧馬橋、旧内手橋、旧東橋、旧八反目上橋、旧八反目橋と、橋づくしをしながら、歩いてきますと、高円寺駅近くまでやってまいります。次にくる橋が、旧宝橋です。此処の橋詰北側は、JR高円寺駅南口より続くアーケード商店街「Pal商店街」となっております。
そしてこの旧宝橋を挟んだ南側から、商店街名が変わり、こちらは「高円寺ルック」といいます。
「高円寺ルック」となった最初の路地を左(東)に折れますと、それは凛として、そこに立っておりました。

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March 12, 2008
  桃の園近く、再び咲いた菜の花(4)

JR中央線沿線をご紹介しております今回のシリーズですが、前回はテーマを中野まで進めましたが、一旦、前々回の阿佐ヶ谷まで戻ります。
クラシック喫茶「ヴィオロン」は、阿佐ヶ谷駅北口より、西、荻窪方向へ向かったところにございます。今回は、その阿佐ヶ谷駅を東に向かってみることにします。

線路、高架の北側に沿う道は、さらにもう一本北側の平行する道からも、高架真下の商店街からも「裏側」にあたり、この高架に沿う道の両側の建物から背を向けられた寂しい処ですが、それでも駅へゆくのには便利ですから、駐輪場なども設けられ、人通りもそこそこある通りでございます。
さて、その道を300メートルほど進みますと、けやき公園という、区民プールが隣接する公園施設が見えてまいります。公園に沿って進み、高架をくぐり、南側にでますと、緑道の入口がございます。(ここまで、高架真下を通ってくることも可能です。)

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March 11, 2008
  桃の園近く、再び咲いた菜の花(3)

20数年前、わたくしが「ヴィオロン」で、ライブの収録をしておりましたころ、マスターのT氏に、その店のことを教えていただきました。JR中央線で阿佐ヶ谷から駅をふたつほど新宿に上り、中野駅北口、サンモールというアーケード商店街の途中を左に折れて、路地にはいりますと、黄色い地に、黒文字で「クラシック」と書かれた看板がございました。そして赤い文字で「音楽室と談話室」とも書かれておりました。

数年前のある日、おそらくはサンモール右側をはいったところにございますフジヤカメラさんへ、なにか写真の道具を買いに出かけたときのことであったと思いますが、久しぶりに「クラシック」へ行ってみますと、入口に閉店した旨が記されており、茫然と、しばらくはその前で、その手書きのメッセージを何度も読み返したことがございました。
前世紀に咲いた、此処の看板のように、ささやかな菜の花のような喫茶店がひとつ、此処を訪れたことがある者の心の中にだけ、強い色を残して、消えてしまったのです。

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March 10, 2008
  桃の園近く、再び咲いた菜の花(2)

JR中央線、阿佐ヶ谷駅を北口に下りまして、高架に沿った駅前商店街、スターロードを西へ、荻窪方向に歩いてゆきますと、行き止まり、クランク状に、少しだけ北へ進み、すぐまた西へと向かいますと、商店街から住宅地へと移ってまいります。周囲が静かに生活を営む人々の家々に囲まれてすぐ、右側に一軒の趣きを異にした建物と出会うことになります。
「ヴィオロン」と云う名のクラシック喫茶でございます。

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March 7, 2008
  桃の園近く、再び咲いた菜の花(1)

JR中央線で、新宿から西に向かいますと、中野区、杉並区、武蔵野市と、市区を越えてゆきます。
わたくしは5歳のころより、20年弱を、武蔵野市で暮らしておりましたから、其処は、云わば、わたくしの故郷なのでございます。
かつて中央線文化圏なる一種の流行語がうまれ、数種の本が出版されておりました。もっとも売れていたかもしれません三善里沙子さんによる「中央線なヒト―沿線文化人類学(小学館文庫)」を、その当時読んでみましたが、なるほど解る気もいたしますし、斯様にカテゴライズされることを嫌うのもまた、中央線人気質なのではないかと思ったりもするのです。

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February 29, 2008
  hommage(2)

前々回のエントリーにて、樋口一葉へのオマージュが綴られました、芝木好子さんの短編「本郷菊坂」(『海の匂い』集英社文庫に所収、絶版)をご紹介いたしました。

ところで、今年1月に発表されました第138回の芥川賞、その受賞作、川上未映子さんの「乳と卵」も、樋口一葉へのオマージュが綴られているとうかがいましたので、文芸春秋3月号(2/10売り)での全文掲載を読んでみました。

本文の前に、川上さんへのインタビューが記事となっておりまして、そこで、樋口一葉は20歳のころ初めて読んで一石を投じられた感じがあった、あんな文章を見たことがなかった、また「奇跡の14ヶ月」と云われるドラマティックな人生にもぐっときた、のだと話しております。

ところで、川上さんはミュージシャンでもあるのですが、わたくしは存知あげませんで、今回の受賞で初めて彼女を知ったのでした。
今(CDが)売れているそうですね、という質問に、それ恥ずかしいのです、注文殺到、5倍の売り上げと云われても、いままで千枚しか売れていなかったから、それがたかが5千枚になったところで、、、、と正直に気持ちを表す彼女には好感がもてます。

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February 28, 2008
  hommage(1)

どうしようもない男女の業を描きました「洲崎パラダイス」の作者、芝木好子さんは、自作に自身を投影するとき、恭子という人物を充てています。短編「本郷菊坂」(『海の匂い』集英社文庫に所収、絶版)も恭子が主人公である自伝的要素を持った作品でございました。

浅草に産まれた恭子は、震災と戦争被災を経て、湯島に居を移します。そして変わりゆく東京の姿に憂愁の情を表します。
その戦後、女学校時代の友が、本郷菊坂の長屋に住みついたことで、恭子は、幾度か、其処を訪ねてゆきます。
そこで描写されます当時の長屋の詳細は、震災からも戦争からも被災を免れた、この明治期から在る長屋群の貴重な記録として読むことができます。驚くことに、この長屋の1室には床の間があったのだそうです。恭子の浅草時代からの記憶でも、路地の家に床の間があるのは珍しいことで、陋屋であっても見識があり、零落してここまできても、行儀よく住む人の家であると述べております。

その長屋は、本郷菊坂町七十番地。芝木さんの短編「本郷菊坂」は、ここから恭子によって、樋口一葉へのオマージュがじっくりと語られてゆくのです。

それは一葉が、この菊坂町七十番地に居を構えていた時期の、彼女の生活を、人生を振り返ってみます。
菊坂から小石川の安藤坂に在った中島歌子が主宰する「萩の舎」へ通ったこと、苦しい生計、田辺龍子の小説デビュー、そして自分も原稿料を当てにして小説を書く決心をすること、半井桃水との出会い、醜聞、そして決別。

芝木さんが、この短編を書いた、その70年前に、其処に確かに居た、ひとりの人を想い、そのころと変わらぬ路地に、2度の災禍を免れ、生き継いできた長屋を見て、そして綴った短編「本郷菊坂」は、下町で生まれ、下町を綴ることを生涯の仕事とした人の、強い想いが内包された、優しい文章でございました。

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December 31, 2007
  「うた」

この大晦日、ひさびさに家族で紅白歌合戦を見ています。番組自体何年ぶりに見るのでしょうか。調べてみますと、1999年の回以来でございました。それをよく憶えているのは三波春夫さんが出場し(最後の出場であり、その15ヵ月後に他界されました)、声の衰えは隠せなかったものの、「お客様は神様です」と繰り返した方らしく最高のエンターテインメントを披露されていたこと。そして天童よしみさんが「川の流れのように」を歌ったこと。天童さんは上手ですね。声の張り、豊かな声量、安定したピッチとリズム。どれをとっても不足ない、最高の演歌歌手でしょう。
ただ残念なことに、その天童さんも往年の美空ひばりと比較しますと、たったひとつだけ、足りないものがあるようです。

美空さんが15歳で歌った「リンゴ追分」の凄まじさ、23歳での「哀愁波止場」、25歳「ひばりの佐渡情話」などなど、また別の表れかたでは28歳時にリリースされました「ひばりジャズを歌うーナット・キング・コールをしのんで」というアルバムの中での「慕情」など、日本大衆芸能を代表するようなメロディから、米国のスタンダードまで、どうしようもなくわたくしの心を捕らえます。
天童さんは、その素晴らしい技術でもって当代最高の演歌歌手だと思いますが、美空さんは、楽曲のジャンルが如何にあれ、それがジャンルを超えた「うた」になっていること。その卓越した歌唱にしびれるのです。


もうすぐ年越しです。わたくしは時期をはずしてしまいましたが、一昨日に手にいれました美空ひばりさんのクリスマスソング、チューブラベルの音、ストリングス編曲が冬景色を想起させます「ひとりぼっちのクリスマス」のやわらかな「うた」を聴きながら平成20年を迎えたいと思います。(braryさん、素敵な曲を教えてくださって、ありがとうございます!)

みなさまもよい御年をお迎えください。

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December 12, 2007
  いま、そこに咲く花(15)

師走に追われ、ばたばたしておりますと、あっというまに日にちが経ってしまいます。12月5日に記しました外堀の紅緋に染まった桜葉は、ほとんど舞い落ち、今も木に残るものたちは既に深緋を超え、茶に近い赤銅色となり、風に震えております。

神楽坂へ訪れるとき、逢坂よりひとつ東側の「ゆ嶺坂(ゆは"まだれ"に"臾"を書きます)」を登ってゆくのが常になっております。車一台分の幅に、右にキリスト教会を、左に瀟洒な邸宅を見ながら、かなり急な坂を登ることになります。
直接神楽坂下から、神楽坂を登っていってもよいのですが、このゆ嶺坂がただただ好きなのです。

坂を登りきると若宮町。都心の限られた土地を有効に使ってモダンに建つ若宮八幡がございます。
そして今度はゆるりと下り、その先の丁字路を右に折れますと、右側には居酒屋や小料理屋などが並ぶ横丁となり、左側にはマンションが建っているのですが、暖かな季節には、どこの部屋からか、開いた窓からときどき三味線の音が漏れ聴こえるなかなかな処なのでございます。
その先に熱海湯という銭湯がございまして、向かって右側に私有地のような空間が在りますが、其処へ思い切って進入してみますと、さらに奥へ延びる階段路地が出現します。
わたくしはこの階段路地が好きで、何度も撮影をしております。夜間、からんからんと桶がタイルを打つ音や、ばさっーと湯を浴びる音が、このうえなく心地よく耳に入ってくる処で、三脚を立て、カメラを階段上に向けてセットするのです。

この熱海湯脇の階段の右側は和風の居酒屋ですが、左側はどこか欧州的な雰囲気がございまして、訪れたことはございませんが南仏の古い街の路地を想像させてくれるのです。
されどコート・ダジュールの波音は聞こえず、ただ爺いや、婆あやの湯浴みの音だけが響くばかりなり。

階段を登りきりますと、路地幅はさらに狭くなり、そして左へ直角に折れます。板塀に挟まれたところを進みますと、他方から向かってきます、別の、少し幅のある路地にぶつかります。その交差した向かいに見番があり、隣には稲荷の小さな祠が建っております。その先にはすぐ神楽坂下から登りきり、既にたいらになった後の神楽坂主街路の賑わいが見えてくるのです。

1:07 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

December 6, 2007
  いま、そこに咲く花(14)

この季節、紅緋に燃え上がるそめいよしのの木々を、もう何年も見ていながら、それらを写真に撮ったことはございませんでした。なんと云いましょうか、色といい、今にも枝から、はらり、としそうな危うげな緊張は、美としての泰然さをそこに取り付く島もなく孕んでいることが、撮る欲求を抑制しているのだと思います。そうして斯様な美に触れますと、わたくしは、どこかが欠如したもの、またはどこか過剰なもの、撮りたいと思うのはそういったものなのだと殊更明確に気付くのでした。

さて、九段で働くわたくしが神楽坂へ赴くとき、新見附橋を渡り、牛込濠に沿い外堀通りを北東に向かいます。もちろんその道程はささやかな四季を享受しながらの歩みになります。
外堀通りの向こうには牛込の台地が聳えているはずですが、通りに面したビルにより台地が迫っていることはあまり意識できなくなっております。ところが新見附橋と、JR飯田橋駅西口がございます牛込橋の中間あたりで、わたくしは通りを横断するのですが、その向かいには台地への上り坂、逢坂がございまして、其処だけ台地への登り口がぽっかりと開いているように感じられます。

そして此処、逢坂への登り口は日仏学院への入口にもあたっております。
午後、このあたりを歩いておりますと、フランス人の子どもが恰好のよい自転車に乗って先を走るお母さんの後ろを一所懸命に追いかけていたり、おそらくはお手伝いさんであるアジア系の女性に連れられ歩く姿をよく見ることがございます。
実際、逢坂上などの牛込の台地には多くのフランス人が住んでいるのです。これは牛込濠を挟んだ対岸、千代田区富士見にリセ・フランコ・ジャポネ・ド・トウキョウ、すなわちフランス語ナショナル・スクールが在ること(在日仏人の家族に欠かせない環境でありますから)に依ると思います。

7:33 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

December 5, 2007
  いま、そこに咲く花(13)

かつての江戸城、そのもっとも外側を囲んだ堀を外濠(そとぼり)と呼んでおります。現在そのほとんどが埋められてしまいましたが、濠の北東部を担っておりました神田川を除く部分では、JR四谷から飯田橋にかけまして、市ヶ谷濠、新見附濠、そして牛込濠が、そして赤坂見附近く、ホテル・ニュー・オータニの裏にもわずか、残っております。
わたくしは平日の毎朝、そのうちの新見附濠と牛込濠を見ながら通勤しているのですが、此処では濠に沿って花吹雪を舞うそめいよしのの花弁が水面の縁を埋め尽くす春や、流れのない濠ならでは藻の繁殖によって木々の葉々より濃い常盤緑に水面を染める盛夏などなど、都心にありながらささやかな四季の情趣を楽しむことができるのであります。

今週、この濠沿いに並ぶあまたのそめいよしのの葉が、ようやっと紅緋に染まってまいりました。濠の辺や、歩道に舞い落ちた葉のなかには猩々の緋にまで、その色を深めたものもございました。
桜花爛漫のころ、ほとんど白に近い薄桜色の花弁を咲き誇ったこれらの木々が、老翁無双の名人が締める調べの緒のごとく、最後の情念を燃やすかのような色を見ることで、わたくしは晩秋から初冬への季節のうつりを感じ入るのです。

2:46 AM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

November 30, 2007
  墨東の記 その(2)

東向島に訪れましたその翌日、午前中から休日の誰もいないオフィスで少し仕事をしまして、天気もよろしいので午後は再び墨東へゆくことにしました。
ところでこの日、毎年行われ、会社近くがそのコースになっております東京国際女子マラソンが開催されておりましたので、昼少し過ぎにスタートした選手のうち、首位の選手が戻ってくるころ、コース脇の歩道へゆき一時の観戦を楽しんだのでした。
其処は38キロ地点にあたりまして、優勝しました野口選手は既にスパートをかけ、2位のケニアの選手を引き離しにかかっておりました。野口選手は大きなストライド走法が特徴と云われておりますが、ほんとうにダイナミックでして、かつ素人判断ですが恐らくは腰の位置がブレないのでしょうね、スゥーと滑るかのように目の前を通り過ぎてゆくその姿、殊の外美しかったのでした。

そんなこんな、しばらく通過する選手たちに頑張れとエールを送っておりましたので、すっかり墨東ゆきの出足が遅れてしまいました。
この日は前日と経路を変えまして、地下鉄を乗り継ぎ、都営浅草線の押上駅で降りてみました。拙ブログへコメントをお寄せくださるbraryさんの興趣尽きぬエントリー「秋の曳船界隈」を既に読んでおりましたので、わたくしも押上から歩き始めてみようと真似をしたのです。

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12:50 AM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

November 27, 2007
  墨東の記 その(1)

新規の写真をアップできませんので、先々週末に訪れた墨東について記しておきます。
思えばおよそ1年前、お世話になっております烏山在住の写真家Sさん宅にて、「墨東綺譚(注:エントリー末参照)」を肴に飲む会がございまして、わたくしが遅れて到着しますと、地下の撮影スタジオで行われておりました鑑賞会、新藤兼人監督、津川雅彦、墨田ユキ主演の映画(DVD)は既に終りかけておりましたが、その後みなで持ち寄りました摘みと酒での会を楽しく参加したのが、墨東を撮ってみようかなと考えたきっかけでございました。

ところで様々な街歩き系写真ブログを見ておりますと、やはり墨東は定番と云いますか、みなさん撮っていらっしゃる。これはやはり荷風の作品と、木村聡氏の本が大きく影響しているのでしょう。
小林信彦氏は、敗戦直後のブームや、岩波からの全集が「東京オリンピックにともなう<町殺し>の時期」に出たこと、さらには昨今のことを挙げ、

永井荷風は東京が破壊される時に必ず読まれる

と記していますが、なるほどよく解ります。(イタリックの箇所は「昭和の東京、平成の東京/筑摩書房/2002」より引用)

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November 19, 2007
  川からは空が見えるのが望ましい(10)

聖橋をくぐり、JR御茶ノ水駅の真下に出てきますと、先をゆく、小学生たちを乗せた1号船が停まりました。30メートルほど離れて、わたくしたちの2号船も停まり、なにごとかが始まる予感に期待していますと、前の船の子どもたちが一斉におだんごのようなものを川に投げ込みはじめました。
当船に乗るスタッフの説明によりますと、川を浄化させる菌を拳大のだんごにして、それを投じているのだそうです。
この有機物による浄化作戦が少しでも実を結ぶことを願っています。

ところで、この様子は御茶ノ水駅ホーム上の人々や、駿河台上と湯島側、東京医歯大病院前を結ぶ、お茶の水橋上を歩く人々からも注目を浴びておりました。おそらく魚の餌でも投げ入れているのでは、と思われていたかもしれませんね。

さて、この附近は駿河台と、湯島ー本郷の台地に挟まれ、神田川はたいへん深いところを流れておりますが、此処が江戸初期につくられた人工の渓谷であることはあまり知られていないのかもしれません。
元々此処には川は流れておりませんでした。平川と呼ばれた流れは、現水道橋駅の少し上流から、南流し、現皇居のほう、江戸城の方向へ流れておりました。
それをまず15世紀に太田道灌が流れを少し東側に移し、現在の日本橋川とほぼ同じ水路ができました。
江戸開府以降、川の氾濫による城や、周囲の被害を無くすため、この江戸城附近を流れる水路への負担を軽減するため、現在の主水路(=神田川)を掘ったのです。最大の難関はこの湯島本郷、駿河台の山を抜けるための渓谷をつくることだったようです。

因みに先に紹介しております下流域の浅草橋附近では、右岸に堤(そして柳を連ねて植えておりましたので柳原堤と呼ばれていたそうです)を築いて、武家屋敷が多く並ぶ城下方面への水の浸入を防いでおりました。すなわち氾濫したときは請地とした左岸側に溢れた水を流すようにしているのです。ところがそこには下町、町人の街が広がっておりますが、この下町の広がりが神田川造成の先か後か、気になるところです。

いずれにしろ、このような大規模な土木事業が可能であった幕府の力というものに驚きを隠せません。

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November 13, 2007
  まるで、あにいもうと

堀切菖蒲園駅前の「青木書店」さんにて購入しました藤田佳世著「大正・渋谷道玄坂」を早速読み始めております(前回エントリー参照)。

この本は、深川のことを随分参考にさせていただきました「深川散歩/東京クリップ」のじんた堂さんに教えていただいたのですが、さすが本にお詳しい方の推薦とありまして、穏やかな筆の運びによき日の渋谷の姿をいっぱい想像できる素晴らしい本であります。

そして同日に購入しましたもう一冊、大岡昇平氏の「幼年」ですが、こちらは現・旧山手通りに沿ってございました三田用水や、明治通り沿いの渋谷川につきまして調べておりましたら、大岡氏が幼年時代を綴ったこの本に渋谷川の描写があるとのことで購入に至ったのです。
大岡氏も幼少年時代を渋谷(の彼方此方)で過ごしているのですが、「幼年」を書くにあたり、そのあとがきに「藤田佳世さんに有益な御教示を得ました。」とありましたことは、わたくしの想像にはなかったことでして、またその藤田氏の本(大正・渋谷道玄坂)を読み進めてゆきますと、どうやら大岡氏のリクエストにより藤田氏が古老にアポをとり、一緒に取材をする項があるではないですか。
すなわちこの2冊はまるで兄妹のような本であることを、購入して気付いたのでした。

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November 12, 2007
  堀切菖蒲園駅前の古書店

街を歩いて古書店を見つけますと必ずや立ち寄ってみることにしています。
ある処では趣味が違っていたり、またある処では欲しかった本が偶然見つかったりと、それはとても楽しい時間となります。
ところで昨今は、とても便利な時代でございますから、欲しい本はネットで調べ、通販で手にすることもしばしばございます。殊に地方の古書店にて絶版ものが格安でリストされているような場合、このようなシステムはたいへん有り難く思います。

ところで先頃より探しておった本、地域の図書館では館内閲覧のみ可能で、貸し出してはくださらず、それならば都立図書館より取り寄せてほしいとリクエストしましたら、地区内に蔵書しているものは取り寄せはできないのですと断られてしまい、ならば古書を求めようと、いつものようにネット検索をしたのでした。
そこでヒットしたHPへアクセスしてみますと、どこかで見覚えのあるページでした。しばらく考え、あぁ!と確認してみましたら、やはり「Kai-Wai散策」さんで紹介されておりました『青木書店』さんだったのです。
これは是非ともお伺いしまして、希望の書籍を手にしたく、先日京成電車に乗り「堀切菖蒲園駅」まで出掛けて参りました。

厚い雲に覆われた日でしたが、店の前に立ちますと、低い色温度の温かなあかりが隙間なく書架に並べられた本たちを照らしております。店頭のガラス仕切りと、ドアの桟の緑色が、きれいに映えております。そして、まさに「本である」『噂』のドアの取っ手をひき、店内に入りますと、本たちが放つ匂いが仄かに香ってまいりました。

店にはご主人と奥様がいらっしゃり、こちらに来た経緯や、わたくしも拙い写真を撮っていることをお話しさせていただいたのですが、水辺の写真というわたくしのテーマについて、ご主人から葛飾区内にございます水元公園を薦めていただきました。帰宅後、少し調べてみますと、なるほど素敵な水風景が撮れるかもしれません。其処はこれからの課題として調べを進めてみたいと考えております。

一冊一冊、とても大切に扱われていることが見てすぐ解る書架。ああ、本を愛していらっしゃるのだなぁ。そのなかから、たった2冊だけでしたが、入店したときには既に揃えていただいておりました本を手にして、とても豊かな気持ちになったのでした。

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この日購入した本
 ・大正・渋谷道玄坂(シリーズ大正っ子)/藤田佳世著/青蛙房
 ・幼年/大岡昇平著/潮出版

どちらも美しい箱入り娘たちでございました。

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October 29, 2007
  川からは空が見えるのが望ましい(1)

もう10日も前になりますが、久々の雨に翌日の心配をした19日金曜。ところが土曜朝には一転、玻璃のような奥深さと透明感のある蒼い空に、前日の不安は雨雲とともに消え去りました。
秋の午前中にだけ見ることができる空の色。ところどころに薄い雲がよいアクセントとなって東からの陽の光をきらきらと反射しております。
両国の河岸には心地よい風が、大川の川面にあたって、ゆったりとした波面を描いております。わたくしたちを乗せる五艘の釣り船、ただし本日は釣りをするためではなく用意された、二艘は浜松町から、そして三艘は柳橋、浅草橋の船宿から、東京水辺ライン両国発着場の桟橋の周囲で待機しております。

浜松町からきた赤い船体が本日の1号船として招待された地元の小学生を乗せます。わたくしは、それに続く2号船で、浅草橋の三浦屋さんの船です。舳先に近い右舷側に座り込み、両国を出発、すぐ進路を右に曲げますと、そこは神田川の河口です。
目の前に朝陽を浴びる美しい柳橋のトラスが見えてまいりました。

(続く)

6:31 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

October 27, 2007
  ブデンマイヤーとは何者なのか

エントリーにだいぶ間が空いてしまいました。最近少し忙しく写真を焼いていませんので、今日は肩の凝らない映画の話しでも。
クシシュトフ・キェシロフスキ監督による最後の完成作品となりました「トリコロール 3部作」。その第1作、ジュリエット・ビノシュ主演の「青の愛(国内1994年公開)」。事故死した夫が書きかけていた欧州統合のための協奏曲を妻ジュリー(ビノシュ)が受け継ぐのですが、それを手伝い、譜に起こす男とのやりとりのなかで「(ジュリー)そこは対位法で」、「(男)おっ、ブデンマイヤー風だな」というような台詞がありました。

ところで、キェシロフスキ監督はこの「トリコロール 3部作」の前に「ふたりのベロニカ」という作品を公開しておりました。「トリコロール」の最終作「赤の愛」で主演しているイレーヌ・ジャコブが好演しておりました。
この物語、顔も姿もそっくりなベロニカという女性が、ポーランドとフランスにおり、そのふたりのベロニカの数奇な運命を、歴史、時間、そういったものを包み込む感覚と、やるせない喪失感のなかで描いています。もちろんイレーヌ・ジャコブの一人二役で演じられます。
ポーランドのベロニカはソプラノ歌手で、リサイタルの舞台上で曲を歌いきって亡くなってしまうのですが、そのベロニカが歌っていたのは、もちろんこの映画のためにズビグニェフ・プレイスネルによって作られた楽曲なのですが、映画の中での設定は18世紀から19世紀にかけて活躍した「オランダ人、ブデンマイヤー」という作曲家(もちろん架空の人物です)による音楽とされているのです。
そのブデンマイヤーが「青の愛」でも過去の大作曲家として登場してきましたので、当時上映を見ながら、おー、使いまわすねぇ、とニタニタ笑ったことを思い出します。

さて、そのブデンマイヤー作(実際はプレイスネル氏の作品)のソプラノ・ソロを伴った悲壮な楽曲「Concerto en mi mineur (Concerto in e-minor)」ですが、わたくしが持っているフランス盤のサウンドトラックCDには2タイプ収録されております。
ひとつはVersion de 1798、すなわち1798年の版として、もうひとつはVersion de 1802。前者のオーボエによる主題提示に替えて、後者には合唱とソロによる序奏が付加されています。

ところで実際の18世紀から19世紀をまたぐ時代というのは、ベートーヴェンが初期作品を書き、そして第3交響曲の作曲(1804)から傑作の森と呼ばれる中期作品群を書き始めるころにあたっています。またはウェーバーや、ケルビーニの時代。
まさにクラシック音楽の絶頂期であったわけですが、架空のブデンマイヤーの楽曲には、音楽的時代考証の要素はあまり頓着されておらず、オーケストラ編曲などは、その時代の大家と並べるには申し訳ないほど稚拙であります。

と云いつつ、このブデンマイヤーの(プレイスネル氏の)Concerto en mi mineur、協奏曲ホ短調の旋律が持つ悲壮感にはたまらない魅力があるのです。そしてその主題のモチーフは映画サントラを統一するモチーフでもあるのですが、ソプラノで歌われますと、胸を掻き毟られるようでございます。

因みにこの歌は、ポーランドのソプラノ歌手、エルジビエタ・トワルニッカさんによって収録されております(当然映画ではイレーヌ・ジャコブがアテブリしています)。トワルニッカさんはその後、押井守監督の実写+CG映画「アヴァロン」でも、テーマとなる「Voyage to AVALON」で素晴らしい声を披露するだけでなく、「Voyage~」を歌うコンサート・シーンが映画の中でも扱われておりました。なお、こちらは川井憲次氏の作編曲だけありまして、さすがオケの扱いも素晴らしいのであります。

さて、「ブデンマイヤー」の例だけでなく、キェシロフスキ作品には事物モチーフの流用が頻繁に見ることができます。例えば町をのろのろと歩く老人の姿などです。物語の進行にはなんら影響のないシーンやカットにおいても、人間の、人生の、個別性と関連性を想起させる象徴的要素を随所に散りばめた巧みな世界。
このなんともまとまりの悪い文章を書きながら、「ふたりのベロニカ」のCDを聴いておりましたら、キェシロフスキ監督作品を再び観たくなってまいりましたので、今週末は台風で荒れ模様のようですから、DVDでも借りてこようかと思っているところでございます。


「ふたりのベロニカ」も、「トリコロール3部作」も全て渋谷のル・シネマで観たと記憶しておりますが、「ふたりの~」が92年公開でしたから、もう既に15年も経っているのですね。早いものです。

5:09 AM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

October 17, 2007
  陋巷の夢、建物の匂い

少し前から、とても気になっていたのです。その単純化、抽象化、そしてバランス感覚、線、色。
他の方のブログで知り、そして訪れてみましたneonさんのサイトにて、線画や彩色画などの作品を拝見してのことです。

いつか原画を拝見したいと思っていましたら、銀座のギャラリー(ツープラスさん)にて企画展が開かれているとのことで、それはよい機会とばかり、伺ってまいりました。

原画はやはり素晴らしかったです。

ウェブで拝見していましたように、その絵の前から、絵の中に入ってゆく自分を再発見しただけでなく、其処の匂いまで感じる自分自身に驚きを感じました。このような体験は初めてではないでしょうか。
それは古びた木が放つものであったり、錆びた鉄のそれであったり、染み込んだ油の濃厚さや、傍に立っているのであろう桜が放つ仄かさが香ってくるのです。想像力を喚起させるナニカがあるのでしょうね。

neonさんに、はじめましてのご挨拶ができましたことも、少しのお時間をいただいてお話しを伺えましたことも、そして展示作品だけでなくファイルに丁寧に収められた「陋巷画日記」と呼ばれる一篇一篇を拝見できましたことも併せて、とても素敵な時間となった画廊でのひとときでございました。


タテモノのカタチ(大倉ひとみ、オーライタロー、岡本雄司、小島満樹子)
ギャラリーツープラス
2007年10月15日(月)~20日(土)
12:00~19:00(土曜/展覧会最終日 17:00迄)


なお、当展示に出品されておりました、他3アーティストの作品(油や銅版画など)も、タテモノを見つめる視線に、みなさんの優しい気持ちを感じられる、素敵なものばかりでございました。

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October 16, 2007
  ここで出会えるとは思いませんでした

フォーラムの友人たちと、東京都写真美術館へ出掛け、そして8月に観た『「昭和」写真の1945-1989』シリーズの続編、『第3部、昭和30・40年代(2)「高度成長期」』を楽しんでまいりました。

変わりゆく都市、デモ、公害病を患う人たち、この時期の写真として、これらジャーナリスティックな視線は外せないところでしょう。
多くの写真家の作品が出品され、さすが写美、といった展示の中で、特に目を惹いたのは、まず植田正治氏の「くもり日・床屋のある町角」です。わたくし、不遜なことに、植田氏の写真、とくに有名な「砂丘」のシリーズなどは退屈と思っていたのですが、ここに展示された写真、そのプリントの美しさといいましたら、まったくわたくし好みなのでございます。この写真は「童暦」という作品集からのもののようで、シリーズ全体をオリジナル・プリントで拝見したいなと思ったのでした。

長野重一氏の作品は構図が素晴らしく、う~ん、と唸らせる写真が多々出品されておりました。

森山大道氏の有名な、あまりに有名な「東京IC」。高速道内のトンネルを走る車中から写したものといえば、ああ、あれね、とピンとくる方も多いかと思います。この作品、かつてもオリジナル・プリントを観ているはずなのですが、こんなに良かったとは! 印刷物では決して伝わってこない、微妙なブレなのか、それが突き抜けるスピードをこれ以上になく表していると思いました。さすがに上手い方ですね。

建設中の東京タワーを石元泰博氏が撮っていました。わたくしは石本氏の写真が好きなのですが、これは過剰に美しく、かえって東京タワーを建ててゆく猛烈なパワーというものを減じてしまっていると残念に感じました。

そして東松照明氏による「公害の源流 足尾鉱山より」が圧巻でございました。作り過ぎ、とも受け取れますが、その徹底した根源の暴露に対する姿勢が、やがてより表現性を重視する時代の写真づくりへの大きな原動となってゆくことを感じさせます。

展示は「写真表現の世界I 戦後派(アプレ・ゲール)」と進んでゆきます。
こうなってくると石元泰博氏も本領を発揮してくるように思えます。市松模様のような建物の外壁でしょうか、それを背景に、ボディラインの美しいアメリカ車がしっかり構図の中で決まっており、そして車と背景の間に、行き交う人々をブラして配置した巧みな写真に圧倒されました。

この時代、東松氏、奈良原一高氏などがVIVOという表現集団をつくってゆくのですが、そんな時代の先陣をきって発表された作品がございました。
まさに、こんなところで出会えるとは! です。先日横浜市中央図書館で借りたばかりの常盤とよ子氏による「危険な毒花(三笠書房 昭和32年刊)」。このシリーズからの全紙大プリント5点。古い本の紙面が、目の前で大きく蘇ったかのようです。なんと奇遇なことでしょう。このプリントを見ることができただけで大きな収穫でございます。
ところでこの「危険な毒花」は、かつての港崎遊郭が、あちらこちら移転し続け、最後に特飲街として在った真金町や、進駐軍兵と彼らを相手にする女性たちが風景をつくる日の出町、麻薬の巣窟となっていた「(氏によって書かれた文章によりますと)XX町のあいまい宿」などを撮影したものですが、写真としては、VIVOの方々に比べると、リアリスティックであり、作ったことよりも、写したことに価値がある種類の写真なのではないかと思います。

ところでVIVOが求めていった表現性の高まりは徹底していたと思います。
細江英公氏の「おとこと女」。身体というものを徹底して描くにあたり、レンズ・ワークやプリントによるデフォルメは、その後三島由紀夫を捉える「薔薇刑」につながってゆくのだと思いますし、東松氏の「11時02分 NAGASAKI」での、破壊され、ごろごろと転がっている浦上天主堂の天使像を写した作品から醸し出される、(写真の)美しさが、恐怖を倍加させている効果など、凄いものです。

その後の写真界は、米国などからの影響もあり、もっと軽妙なコンポラ写真などへ移ってゆくのですが、それにはVIVOなどが打ち出していった過度の表現を求める態度への反動もあったのではないでしょうか。
「写真表現の世界II ブレボケ・コンポラ・私写真」へと展示は続きます。ブレボケの森山氏や、写真展示はなかったものの資料としてガラス・ケースに納めてありましたプロヴォークでの中平卓馬氏。柳沢信氏の「都市の軌跡」や、洋子夫人との月日を写した荒木経惟氏の「センチメンタルな旅」。こういった昭和の写真が在って、そして昨今の写真もあるのだということが、よく見えてきます。

次期展示は10月20日から(12月9日まで)、『第4部、「オイルショックからバブルへ」昭和50年代以降』となるようです。平成へ、そして21世紀へとつながる写真表現を、こちらも機をみてうかがいたいと思うのでした。

12:58 AM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

October 13, 2007
  開いた姿だけが花ぢゃないはず(3)

先週借りた本を返却に横浜市中央図書館へ。小腹が減りましたので野毛の立ち呑み屋にふらりと入りましてビール小瓶と、オバチャンがその場で揚げてくださるフライを2品。お腹を満たしてしまいますと帰宅後用意された夕食を摂れず、カミサンに叱られますので、ここはグっと堪え、ほんの少しだけ召し上がることにいたします。
オバチャンにソースは普通の?辛いの?と訊かれ、辛いやつでとお願いします。この辛さがクセになります。
すっかり秋めいた涼しさの中、高温の油がジュウと鳴き、白かったコロモが、狐色になり、ソースに浸かって赤みが増すさまを眺め、そしてときどき細かい雨が落ちてくるのを気にして外を見やると、どおんどおんと太鼓の響きが遠くから近づいてきます。
ナニゴト?
と、思えば、踊りながら太鼓を叩く男性ふたり、ひとりのサンシン弾きに謡い、手踊りをする女性はふたり。沖縄のエイサーです。何故、野毛でエイサー?

どうやら、この晩は野毛流し芸というイベントが行われているのだそうです。大道芸のイベントには来たことがございますが、流しもイベント化しているんですねぇ。
さて、間に合うでしょうか、鞄からカメラを取り出し、フィルムを急いで詰めます。幸運なことに、ここ野毛小路の「立ち呑み処 フライ屋」と、向かいの「ラーメン三陽」に挟まれたところで、エイサーのグループは留まって芸を披露してくださってます。「フライ屋」さんの明かりに頼って「三陽」を背景に数枚レリーズ。

こうしてはいられません、オバチャンお勘定、600円、なんとまぁ。

野毛の路地を巡ってみますと、三味線、ときにそれは津軽だったり、江戸前っぽい音色も聴こえます。着物にアコーディオンを抱えた可愛らしい女性が、路上から、居酒屋の窓の中に向かって唄をうたって、お客のオジサンは大喜びしています。
どぜう屋の店内からは哥さんの高い声、か細く鳴く細棹。むむむ、これは新内節ではないでしょうか。新内流しが似合う町、これは現東京を探してもなかなか見つからないかも知れませんが、ここ野毛ではとても良い感じです。

この非日常な感じが、路地を巡りながら昭和なのか、江戸なのか、そのどちらでもなく、未来のできごとなのか、時間感覚を狂わせます。それが惜しい。
できることなら、この姿が日常であってほしいと、ますます好きになってきた野毛の路地に期待をしてしまいます。
そして音楽的に雑多であることは、もうこの時代ですから、仕方がないことでしょう。それでもこういったなかから、野毛的なものが育まれると、とてもよいことだと思うのです。
あ、エイサーは、ほんのときどき、イベントなどでご登場いただくだけで充分でございます。音が大きすぎますからね。

どこへ行っても、スピーカーから流れる音楽、様々な機器から発せられる電子音、いまその音は聴きたくないと思う他人のケータイ着メロ。そうではなくて、生の楽器と、生の声のよさを、素人さんではなく、玄人の芸で、楽しみたいと願うのであります。

11:59 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

October 7, 2007
  開いた姿だけが花ぢゃないはず(2)

現在居住しております横浜市に隣市より越してきたのが昨年7月。町内会に入会しておりますが、意外なほど活発な町でございまして、子どもを中心にたいへんお世話になっているのです。
ご近所には、娘の幼稚園、同じクラスであったり、同じ通園バス停であったりしたことで、家族ぐるみでお付き合いをさせていただいているお宅もあり、居心地のよい場所となっております。

このような土地で、6日、7日と、地域の鎮守様の秋祭りが行われました。
このあたりは横浜と云いましても「港」を感じられる要素はひとつもない内陸部でございますが、縄文の頃は陸と海の境で、当時の陸地は台地として残っており、いにしえの複雑な海岸線を感じられるところでございます。
わたくしの家は当時の海の底、低地にございます。鎮守様は、低地から階段を上がった、台地の斜面に建てられております。その裏はちょっとした里山を思わせるほど鬱蒼とした林が広がるところ。
6日夜は娘を連れて夜店へ。くじ引きをしたり、焼きそばを食べたり、近所のオジサンに綿菓子をおごっていただいたり、娘と一緒に童心に帰って楽しんでまいりました。
7日は朝から子ども神輿が町内をめぐり、娘はまだ小さいので山車を引いてきました。わたくしはその周囲で娘や、友だちをスナップしていたのですが、友人宅のパパたちは自警消防団に加わっておりますので、神輿や山車の巡る前後で交通整理をしていたり、また隣の奥様は屋台で仕事をしていたりと、この祭りを提供する側として、時間と身体を使っていらっしゃったのが心に残りました。
わたくしも来年は、地域の子どもたちが楽しむ姿を見るために、少しの時間と身体を使って、お手伝いをさせていただきたいなと感じた週末でございました。

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October 5, 2007
  開いた姿だけが花ぢゃないはず(1)

みなとみらい線、日本大通駅を降りてすぐ、昭和4年に横浜中央電話局の局舎として建てられた歴史的建造物内にございます横浜都市発展記念館の企画展示「写された文明開化」を観にゆきました。


わたくしが古写真というものに興味を覚えましたのは、現代において湿板写真を復活させ作品制作に取り組んでいらっしゃる、菅原一剛さんの写真展「MADE IN THE SHADE」を拝見したことが機となったのでございます。
湿板写真とはなんぞや、から始まり、日本の写真開祖と称されております上野彦馬氏による湿版写真感剤製造に関する長崎大学薬学部の記事に圧倒され、念願の上野氏のプリントを今年3月に東京都写真美術館にて鑑賞できたことはたいへん貴重な体験でございました。

さて、ここ横浜は再来年の平成21年(2009)に開港150周年を向かえるにあたりまして、いまからイベントなどが多く組まれております。そのなかで開かれました今回の企画展示、オリジナル・プリントの出品が少なく、写真好きには少々残念な展示ではございましたが、開港当時の横浜の姿を垣間見ることができました。
また上野氏の展示にはございませんでした、ジンチャク(人工着色)写真を初めて見たのですが、作品によってはたいへん美しいもので、特に明治14年、本町通りに写真館を開業し、その明治中期に活躍された日下部金兵衛氏によって制作されました絹の団扇にプリント、ジンチャクされた鼓を打つ芸妓の柔らかい階調と、色調には釘付けにさせられましたこと記しておきます。


横浜都市発展記念館を退館した後、横浜公園を抜け、JR根岸線のガードをくぐり、伊勢崎町の入口をかすめ、大岡川を渡り、野毛へ、そして野毛山を登り始めてすぐの横浜市立中央図書館へいってまいりました。
目的は書棚ではなく、書庫に眠る一冊の本を求めてのこと。
戦後すぐ横浜のアンダーグランドな姿を撮った常盤とよ子氏の「危険な毒花(三笠書房)」を借りるために。

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September 11, 2007
  平面から立体を起こす

さて、わたくしの記憶の中に眠っておりました金毘羅船々音頭を蘇らせた「金刀比羅宮書院の美」展へは、忙しさもありまして上野の山へなかなか足を向けることができずにおりましたが、展示最終日の9月9日にようやっと行って参りました。
朝一番で入館するつもりでしたが、芸大に到着したのが10時半。開館から30分過ぎておりました。すると長蛇の列が美術館周囲を巡っており、50分待ちのカードが掲げられております。台風が明けてよく晴れた週末。残暑の陽射しが容赦なく照り付けてきます。折しも「東京藝術大学芸術祭2007」開催中で、模擬店の学生さんがこれみよがしに、汗を流し、列に並ぶわたくしたちを良いカモと、冷たいドリンクなどを売りに来ます。
可愛らしいお嬢さんに「冷たいラムネはいかがですかぁ」と来られれば、「あ、ひとつくださいっ」となるのが人情(か?)。「でもこの瓶持って中に入れないでしょ? 少し経ったら瓶を引取りに来てくれる?」と我侭な注文にも応えてくださり、こちらの準備は万端。いざ美術館内へ。

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2:21 AM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

September 10, 2007
  記憶の底、眠っていたあの旋律

それが高らかに胸の内に鳴り、甦ったのは先月のことでした。

わたくしが通った東京武蔵野市の小学校では、どういう経緯でそうなったのか存じ上げないのですが、或る民俗舞踊を、最上級生になりますと覚えさせられ、運動会の中で発表する慣例がございました。わたくしはそれを踊る最上級生を見ては憧れ、早く6年生となり、あの「恰好よい」舞踊を体得したいと夢見ていたのでした。

それは、少なくともわたくしには、ただ一時の遊戯ではなかったはずです。通常の(音楽)授業では得られなかった音曲感覚を味わい、地域で行われる東京音頭をはじめとする盆踊りとも少し違う舞踊感覚を感じながらも、以来あまりにも多くの年月が過ぎてしまった今日、わたくしの身体にその振り付けはまったく残っておらず、旋律も忘却の彼方、と云いますより、その舞踊の存在自体忘れかけていたのです。

ところが、旋律だけははっきりと、詞章とともに蘇ったのです。


わたくしが、思い出したその謡は、

  こんぴら ふねふね おいてに ほかけて シュラシュシュシュ
  (金毘羅  船々   追い手に 帆掛けて)
  まわれば しこくは さんしゅう なかのごおり ぞうずさん
  (詣れば  四国は  讃州    那珂の郡   象頭山)
  こんぴらだいごんげん
  (金毘羅大権現)
                              香川県民謡より


その端緒となりましたのは、こちらのブログ・エントリーを拝読したことです。

なんと金毘羅さまにある襖絵が東京に来ているではないですか。あの舞踊を習いながら、これはいつかは金刀比羅宮詣でと考えていたことも併せて蘇ってきました。もちろんその舞踊自体忘れてしまっていたわたくしが、かの地へ詣でたはずもなく、金毘羅さまには失礼つかまつっていたのでしたが、友人と山手線内でその東京藝術大学美術館で開かれております「金刀比羅宮書院の美」の広告を見、この展示には絶対に行かなければと、「この夏は、上野の山に シュラシュシュシュ」というコピーに苦笑しつつも、決意したのでした。

12:03 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

August 22, 2007
  水辺のトーン

かつての東京には多くの水上生活者がいたようです。彼らは彼らの船で生活をしながら、都市機能であった舟運を担っていたのです。貨物を彼らの小型の船に移し、荷揚げ場や直接工場に輸送することが仕事で、その艀ぶね(はしけぶね)が彼らの船であり、家であったのです。今ではほとんどそういった光景をみることはなくなってしまいました。

ところで先週末、地方からの友人を迎え、東京在住の友人とともに散策に出かけました。
まずは有楽町、日本外国特派員協会にて写真展を見まして、そして銀座。中古カメラ屋や、築地場外市場を冷やかしながら、晴海通りを東へ。隅田川。勝鬨橋を渡り、月島まで。

月島でも1号地(中央区月島)と2号地(中央区勝どき)は、月島川と呼ばれる運河に隔てられております。この月島川は狭い運河ですが、それでも多くの船が係留しており、なかには「家が付属している」と思われる船の姿もございました。
散策した日、この河岸では多くの人がボラなどを釣って楽しむ光景がございました。昭和40年に生まれたわたくしにとって、東京の海や川、水路などは、油が浮き、腐臭漂う嫌な場所という印象を長く持っておりました。ところがそういった印象が変わってきた、ああ、水も段々ときれいになってきているのだなぁと思い始めたのは平成になってからです。
それでも若干の油が浮くように見える水面から、此処月島川には数多くの小魚がきらきらと水の上から注ぐ光を反射させながら泳ぐ姿を見ることができました。

月島東岸、隣の4号地(中央区晴海)を見渡せる朝潮運河近くに木材運搬の会社がございましたが、なるほど朝潮運河上、「晴月橋」の附近には護岸から延ばした桟橋だけでなく、浮き桟橋も広く造られて、作業場を感じさせる小屋や、係留された舟の姿を眺めることができ、都市としての奥行きを感じることができました。

この日の首都圏は久しぶりに雲が覆い、散策するには都合よく、月島西側から佃へ、相生橋袂から大川端リバーシティの周囲を堤防に沿ってぐるりと巡り、住吉神社へと。そして佃の水路で、これまた釣りを楽しむ人たちを見て、そうしてやってきた月島東側。
月島の路地はまさに昭和を残したままの佇まいを見せてくれましたが、陽の光が射し込む空模様ではございませんでしたので写真のフィルムはなかなか進みませんでした。路地そのものを撮るというより、わたくしは路地に射し込む光と陰を撮りたかったのです。
唯一白黒写真のトーンを描けたかなと思うのは、朝潮運河に架かります「朝潮橋」から捕らえた運河の寸景でしょうか。プリントしましたら掲載したいと考えております。

6:15 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

July 28, 2007
  Star Navigation(8)

ホクレア号の日本人クルーで、写真家の内野加奈子さんは今年2007年のハワイイから日本への航海で、その最終目的地、日本の島影、正しくは沖縄の島影が見えたとき、自分に見えたものは「はじまり」だったと、旅の終わりではあるのに、そうどんなに自分に言い聞かせても、こころが感じるのは「はじまり」だったと、彼女のブログで書かれておりました。

7月27日金曜の晩、久しぶりに南青山にございますライブハウス「MANDARA」に訪れました。わたくしにホクレア号の存在を教えてくださったアーティスト、Psalmのライブを楽しみにしていたのです。
ここMANDARAは、サウンドにうるさいミュージシャンも多く出演しておりますし、アコースティックものも数多く、Psalmのような25弦琴と、ヴォーカル・パフォーマンスによる音楽も、上手に鳴らせてくれると期待はしておりますが、それでもPsalmをはじめて観たときは完全生音によるライブでありましたので、PAを通した彼女たちの演奏に触れるのは今回で初めて。あの完全生音で伝わってきた心地よい世界観がどれだけ伝わってくるのかは全く未知数なのでございました。

ところがオープニング曲が始まりますと、まずヴォーカルの玉井夕海さんの艶やかで、伸びのある歌声が、しっかりとわたくしの心を捕らえました。拾音が難しい琴の音もまずまずでございました。いや、そんなことはどうでもよくて、かりんさんの、曲とともに流れ、刻み、謡い、跳ねる、琴の調べは創造的で、そのアレンジの秀逸さは琴という古の楽器の、新しい響きを求めて止みませんでした。そしてお二人の声は、上になり下になり、聴かせどころを心得たハーモニー・アレンジを伴って、それを聴くわたくしたちの心を海へ、空へ導いてゆくのでした。

途中、わたしたちのわらべ歌をPsalmアレンジにて数曲披露されるコーナーもありまして、これはどうやらシリーズ化してゆきたいとのこと。レパートリーが充分に揃えば、企画ものの録音物ができてしまいそうなクオリティでしたので、とても楽しみなシリーズとなります。

さて、この夏、彼女たちPsalmは旅に出るのだそうです。8月15日、北海道・二風谷を皮切りに、夕張、札幌、江別。新潟、富山、彦根、一宮、福井・武生、京都、大坂・築港、枚方、神戸、岡山・玉野、今治、高松、福岡、長崎、熊本、そして9月29日天草へと。
この旅を通じて、彼女たちはなにに出会うのでしょう。そして表現はどうなってゆくのでしょう。まったく興味が尽きません。
もしこのブログを読んでくださっている方で、お近くにお住まいの方がいらっしゃいましたら、是非ライブ会場へ行かれることをお勧めいたします。まだ詳細等明確になっていない会場もあるようですので、わたくし宛にメールをくだされば、間にはいって、メッセンジャー役を担わせていただきたく存じます。

またこの旅に先立ち、去る7月20日のライブ(こちらにも行きたかったのですが、仕事が抜けられず残念でした。)より、ミニアルバムのCDがライブ会場で販売開始されました。わたくしもMANDARAの会場にて購入し、帰宅直後聴いてみましたが、ミニアルバムではもったいない、もっともっと聴いていたい気にさせられました。逆に云いますと全5曲のミニアルバムだからこそ、彼女たちの魅力が凝縮され、同時に飢餓感も与えられる内容なのだと思います。

psalm_cd0707.jpg

この夏の旅が、Psalmにとって、忘れられない時間となりますことを願ってやみません。

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July 27, 2007
  いま、そこに咲く花(4)

いま、そこに咲く花(1)」というエントリーをアップしましたとき、最近神楽坂ははちょっとしたブームになっていますというコメントをお寄せいただき、流行に疎いわたくしは最近頓に路地見学者が多くなりましたことを思い浮かべ、ほう、と膝を叩いた次第でございます。
確かにJR飯田橋駅ビル内や、地下鉄神楽坂駅近く坂上の商店街にございます書店をのぞいてみますと、店頭には所謂神楽坂本が、すなわち街や、そこで営まれている飲食店などを紹介している雑誌やムック本がいく種も積み重ねられております。
そういった本を購入することはありませんが、それでも店頭にて、ぱら、ぱらとページを捲りますと、この街を代表するような光景が写真で紹介されております。
事程左様に、この街の景色は多くの人に伝えられており、まだ訪れたことがない方々でも、それらの本や雑誌を手にすることによりまして、此処の風趣の一片は感じ取っているのだと思います。

ところで、わたくしは今週三遍ほど、仕事が終り次第、この街を訪れていました。
少し前より、この街を写すアプローチをはじめ、ようやっとわたくしなりのこの街の伝え方が、その映像イメージが固まってきたのです。もちろんそのイメージは神楽坂本には載らないような種のものでございます。
折しもあれ、25日水曜日からは「神楽坂祭り」が始まり、多くの人で賑わっておりました。撮影はまず月曜日、暗く、人通りの少ない路地にて、露光のテスト。充分にディープシャドウを満たす値を探るべく即現像してネガの様子を確認いたしました。そして水曜、木曜と、祭りのメイン会場であります毘沙門さま、そして表通りだけでなく路地の隅々まで人々で賑わうなか、黙々と撮影をしておりました。
イメージした方向性はよろしいようですが、完成させるまではもうひと息といったところでしょう。このイメージは夏場を逃すと辛くなりますので、この時期が過ぎてしまいますと、また来年に再挑戦ということになります。写真制作とはかくも時間が掛かるものですね。

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July 15, 2007
  佃島

さて、家康から江戸向島と呼ばれた洲を拝領した森孫右衛門ら一行は、そこを出身地にちなみ「佃島」と名付け造成工事に取り掛かりました。そして15年もの歳月を掛けまして正保元年(1644)に完成させることになります。漁民(ただの漁民ではなく、軍事行動にも参加していたので海賊であったという説もございます)が測量、土木、建築という専門工事を為してゆくのは、まったくたいへんな事業だったのでしょう。

ところがその特殊技術は、さらに活かされることになります。
彼らは本願寺教団の信徒であったのだそうですが、元和3年(1617)江戸浅草近くの横山町に建った江戸浅草御坊、本願寺別院は、振袖火事と呼ばれる明暦(1657)の大火によって消失しました。
そこで当時の佃島の名主忠兵衛が奔走しまして、佃島に近い海際への移築を働きかけます。そして再び海を埋め立てて土地を築き、すなわち築地ができ、そこに再建し本願寺別院は築地御坊として延宝8年(1680)に完成となりました。

そのころより、佃島では、踊りながら念仏を唱える踊念仏をルーツとする祖先の例を祀る行事を、七月の盂蘭盆の頃に行っておりました。
そして驚くことに、その踊りは現在に至るまで伝承され、今年も先日7月13日(予定では15日までの3日間でした)に東京では唯一、全国的にも珍しい、念仏踊りによる盆踊りが行われています。

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3:28 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

July 12, 2007
  祖父の顔、祖父の写真

わたくしは祖父の顔を知りませんでした。母方の祖父のことです。いや、写真では見たことがあったかもしれません。しかし幼かったころ、少年だったころを通じて、わたくしにとっての祖父は、実の祖父が亡くなった後に祖母が再婚した人がそうでありまして、実の祖父の顔姿に興味を持ったことがなかった、というのが実際のところです。そのことは、わたくしにとっての祖父から、わたくしが充分な愛を感じ育つことができた幸福からくるものであったと思っております。
実の祖父は、わたくしが産まれる前、昭和37年に亡くなっております。

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6:56 PM permalink | comments (8) | trackbacks (0)

  名作写真と歩く、昭和の東京

更新が滞っておりましたので、最近読んだ本の話しでも。
目黒区と渋谷区を跨ぎます上村坂の話題から、本にお詳しい方より、かつての渋谷南平台の写真が載っております「名作写真と歩く、昭和の東京」(川本三郎著 平凡社 2007年刊)を紹介していただきました。

これは昭和7年(1932)から63年(1988)まで、52名の写真家によって東京で撮られた写真67点を紹介したもので、読売ウィークリーに連載されておりました「東京時空散歩」を加筆、再校正したものとのこと。数々の写真だけでなく、1点1点、川本三郎氏の文章を読めるのが楽しい写真本でございました。

掲載写真を撮っております主な写真家は、(敬称は略させていただきます)荒木経惟、上田正治、木村伊兵衛、桑原甲子雄、牛腸茂雄、須田一政、田沼武能、丹野清、東松照明、土門拳、長野重一、細江英公、森山大道などなど、外国人写真家はHCB、ロバート・キャパ、ルネ・ブリ。昭和ですねぇ。まさにその時代を代表する方々のお名前ばかりです。

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12:02 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

June 30, 2007
  六月のみそぎ

吉原御免状」という小説があることを最近のお気に入りのブログから知りまして、今春に読んでみました。著者であります故隆慶一郎氏は脚本家としての人気作家でありまして、この「吉原御免状」が隆氏61歳のときの小説デビュー作であったとのことです。

時代小説ですが、ストーリーテリングの見事さにより、文庫にして500ページの長編を一気に読んでしまいました。
吉原成立秘史に迫る内容で、なぜ吉原だけが御免色里として成立できたのか、神君御免状とは何か、なぜ裏柳生が狙ってくるのか、主人公の剣士・松永誠一郎とは何者なのか、畳み掛けてくる謎が明らかにされるに従い、読み手はぐんぐん引き込まれる、そんな小説でございました。
そしてその舞台では「傀儡子(くぐつ)」や「道々の輩(みちみちのともがら)」(このあたりの歴史用語につきましては隆慶一郎氏の門下生による隆慶一郎オフィシャル・サイト内「歴史用語の基礎知識」が詳しい)らが大活躍するのですが、これはまったく網野善彦氏による歴史観であるところが驚きでもあり、かつ楽しかったです。

さて、隆氏には「かくれさと苦界行」という「吉原御免状」の続編にあたる作品があるとのことでしたが、しばらくは手に取りませんで、いかがしようかと思っていたのです。
ところが先日、書店にてちらっと、この「かくれさと苦界行」のページを捲ってみますと、何ということでしょうか、その冒頭に完全にやられてしまいまして、そのままその文庫を持ちレジに足を向けておりました。
ではその冒頭を引用させていただきますね。

『川祓(かわみそぎ)
 大川(隅田川)では、例年六月の晦日になると御祓(みそぎ)が行われる。江戸各所の神社が、神主と氏子の者でそれぞれ舟を仕立て、両国川を宮戸川へさかのぼる。舟の中で神主が祝詞を誦し、終ると氏子たちが形代を川へ捨てる。形代は藁人形で、人々は自分の罪障や病い、苦しみや悲しみの一切をこの人形に転移させ、それを大川に流すのである。六月祓、夏越しともいった。』


※『』内は「かくれさと苦界行/隆慶一郎」(新潮文庫)より引用
※拙注:両国川は大川=隅田川の別称、まさに両国あたりの流れを指していたのでしょう。宮戸川も同様で、こちらは浅草辺りを指しているようです。

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June 18, 2007
  いま、そこに咲く花(3)

前回のエントリー「霊岸島を歩く」にて、中央区新川で見つけた古書店で、近藤富枝著「今は幻 吉原のものがたり」という文庫を購入したことを記しました。

女史の作品では、わたくしが本郷界隈を撮影しましたころ、「本郷菊富士ホテル(近藤富枝著・中公文庫)」を読んでおりました。
その作品中にて、坂口安吾の恋人と記された矢田津世子(やだ つせこ 1907~1944)という作家の名を知り、その矢田が、

自分はどういう意味にしろ圧迫する人を持ちたくない。そのために萎縮する性質だから

と、進展芳しくない恋を振り切り、小説を書くことを選んだということにたいへん興味を覚えました。

そうして、矢田津世子の「神楽坂(神楽坂・茶粥の記―矢田津世子作品集・講談社文芸文庫に所収)」という芥川賞候補となった作品を、古き時代の神楽坂の様子が窺い知れるかもと、早速読んでみたのです。

坂下の袋町(現存)の妾宅へ通う、坂上の通寺町(現神楽坂6丁目)もしくは横寺町辺りに住む「馬淵の爺さん」。妾のお初は、爺さんに贅沢なものを強請るのが得意。ところで爺さんの本妻はたいそうな働き者。身体を患い床の生活を強いられているものの、腕に覚えのあるお針仕事を辞めることはない。爺さんは妾をもつほど経済的には恵まれているというのに、であります。
そしてその本妻、お内儀さんが床の生活を始めた頃に孤児院から引取られ女中として働くお種は、お内儀さんのしっかりを引き継いでゆく。

近藤富枝さんは、余程矢田津世子に心を奪われたのでしょう、「花蔭の人-矢田津世子の生涯」と彼女の伝記も書かれております。「本郷菊富士ホテル」によりますと、矢田は「うわぜいが高く、体格もすぐれ、目鼻立ちも美しく、いわゆる秋田美人で、色も白」かったのだそうで、そこで挿された写真から判断しますと、はっきりとした目鼻立ちは、宝塚の男役など似合うのではないでしょうか、と云いますのも、他の資料も含め、わたくしが見た彼女の写真すべてでネクタイを締めているのです。そんな麗しい方です。

消費することしか口にしないお初、ものを作り生み出してゆくということが身体に染み込み始めたお種、それらは今の街そのものにも通じる二面性なのかもしれません。


(注)イタリック体の箇所は、近藤富枝著「本郷菊富士ホテル」(中公文庫)より引用

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June 15, 2007
  霊岸島を歩く

予報では曇り空が続くはずの日でした。ところが朝から雲の切れ間には美しい青が見え、このまま晴れ渡ったらさぞ素敵な光に満ちた日になることでしょう。
午前中、仕事の納品物を取引先へお届けにあがり、昼はその近くでと考えておりましたら、朝期待しましたとおり、初夏を思わせる光に、思わずコンビニでおにぎりと茶を購入、取引先近く隅田川の川辺でいただくことに致しました。(こういうとき弁当を買ってしまいますと空き箱の処理に困りますので、使用済み包み紙(ポリ)を鞄に仕舞えるおにぎりが宜しいのです。)

ここはかつて霊岸島と呼ばれた処、北に日本橋川、東に大川(隅田川)、西側から南へと折れるかたちで亀島川に囲まれた、もともとは江戸中島と云う大川の中州で、江戸期に埋め立てられた人工の島でございます。かつては廻船の船着場を多く抱え、上方から卸される下り酒(と呼ばれた酒)を扱う問屋で賑わったとのことであります。
現在は中央区新川1丁目、2丁目となり、オフィスビルの建ち並ぶ地区。
わたくしが昼食をとりましたところから、左方、上流側を見れば大川を跨ぐ永代橋。その橋を越えると深川でございます。

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下流を見れば中央大橋が架かり、その橋の行く先に佃島。佃2丁目に聳える高層ビル群が大川に影を落としております。

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亀島川も都内の多くの堀川と同じく、コンクリートの護岸に囲まれ、なかなか撮影には厳しいようです。唯一絵になるところと云いますと、桜通りが亀島川を跨ぐ「南高橋」を含めて、ということになるでしょうか。
さて、本日は仕事の合間を利用しての散策でございましたので左程時間もなく、堀川をぐるりと周って、お終いでございます。
最後に、新川1丁目と2丁目を分かつ明正通りを歩いていますと、文庫と新書だけの古書店を見つけました。

・今は幻 吉原のものがたり / 近藤富枝著(講談社文庫)
・新編 近代美人伝(上、下) / 長谷川時雨著、杉本苑子編(岩波文庫)

を購入いたしました。
「今は幻~」、近藤富枝さんは、このような小説もお書きでしたか。衝動買い。
「近代美人伝」、これ欲しかったのです。

11:28 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

June 14, 2007
  いま、そこに咲く花(1)

柳橋、江東区、そして市川と、撮っているこのごろでございますが、実は代官山と、神楽坂にも足を向けてアプローチを開始しております。
代官山はわたくしが五歳まで過ごしたところ。記憶の中にある街の姿と、まったく様変わりしてしまった現在のイメージを重複させることで、なにか作品ができないものかと、考えているのです。

東京都新宿区にございます「神楽坂」の一部は今も続く花街であります。東京に残る花街で、唯一花街的雰囲気を保っている処ではないでしょうか。かつて東京最大最盛の花街でありました柳橋は、ひとりも芸妓がいない街となって久しく、そこでわたくしは目にしたことのないかつての輝きに対し、遅れて産まれた者の愁嘆を作品に結び付けようと足掻いているのでございます。ところが神楽坂にはその花がございます。もちろん実際に花を摘んで遊ぶことができるような身分ではございませんが、日が暮れた街を歩いてみますと、なんともいえない風情に心を奪われることを拒むことができません。それでも現役ということに甘えて、撮影をする、という行為を延ばしておりました。

ところが過日、戦慄を禁じえない出来事が起こりました。

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5:49 PM permalink | comments (10) | trackbacks (0)

June 11, 2007
  Star Navigation(6)

光射す朝、予報ではこのあと雨になるとのことです。
9日土曜は朝一番で娘が通う幼稚園の参観へ。家族揃って登園。昨年のこの日を思い出し、娘のこの1年間の成長をあらためて認識いたしました。
友人母子と公園に遊びにゆくといいます娘、家内に別れ、わたくしはひとり、横浜みなとみらい駅へ向かいました。小型艇や、水上バスの発着場となっております「みなとみらい・ぷかり桟橋」へ到着したのが11時10分。

六分儀も、クロノメーターも、方位磁針も備えずに、星の位置から方角と緯度を割り出し、雲が覆う日には波や風から天気の流れを知り、そして鳥の姿や行動から位置を知るといった人間が持つ知恵を最大限に利用する伝統航海術を用いて大海原をハワイから3ヶ月かけ航海してきた古代式のカヌー「ホクレア号」の最終寄港地である此処横浜みなとみらいへ、その偉業をこの目にしたいとの想いで出かけたのでした。
予定では12時に入港とのことでしたが、わたくしがインターコンチネンタル脇のテラスから桟橋へ降りてゆくと、既に多くの人が桟橋内、そして桟橋を見渡せる岸に集まっているのが見えました。

残念なことがふたつ。
ひとつめは、このとき既にホクレア号は伴走船カマ・ヘレ号とともに着岸していたことでした。港へ入ってくるところから、この目にしたかったのですが、予定が早まったのでしょうか。午後からの荒天を予想してのことだとすれば理解できますね。
もうひとつ、これは大方予想していたことですが、関係者およびプレス以外は艇に近づけなかったこと。入港式を間近で体験できなかったことです。まぁこれは仕方ありませんね。

わたくしは2本延びた桟橋の付根あたりで進行してゆく入港式を見守りました。艇の中ではクルーたちの相次ぐ抱擁が見られます。式は伝統に基づいた神事を見るがごとくの進行、圧巻はクルー全員が艇上で行った歓喜を伴った踊りでした。
一面を覆う雲からは、いまにも雨が落ちてきそうですが、なんとか持ちこたえているようです。
ようやっとクルーが艇から桟橋に降り立ちます。
そして続く儀式、そしてメディアの取材。クルーが桟橋をこちらへ渡ってきたのは13時ごろのことです。わたくしたち外野の見学者も全員で彼らの偉業を讃えまして大きな大きな拍手でお迎えいたしました。その拍手は英雄ナイノア・トンプソン氏と、そして日本人クルーのお二人にはいっそう大きく背後には無粋な現代商業施設が建ち並ぶ横浜の岸に響きわたりました。


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11:32 AM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

June 4, 2007
  Star Navigation(5)

ホクレア号航海ブログによりますと、九州と瀬戸内沿岸の港を巡っておりましたホクレア号は、6月4日正午すぎ、伴走船カマ・ヘレ号とともに、最後の寄港地・横浜へ向けて愛媛県宇和島を出航したとのことです。

横浜へは6月9日に入港予定。わたくしはその日、ホクレアの雄姿を見に、横浜ぷかり桟橋へ出向く予定でございます。


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7:06 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

June 2, 2007
  真間から菅野へ(9)

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"習作・市川の光と陰 May 2007"

May '07, @Ichikawa, Chiba.
Taken with the Nikon new FM-2 with the Nikkor 35mm f2 lenz.
Fuji Neopan 1600 Super Presto @EI 800, dev in Kodak X-tol (1:3)
Forte Polygrade RC, Semi-matt, dev in Home brewed D-72 (1:2)


幸田文の「父-その死(父・こんなこと 新潮文庫に所収)」を読んでおりまして何度かぞおうっとした感覚に見舞われました。引用が多く情けないエントリーになりますことご容赦くださいませ。
その書を開く以前に同著者の幼女時代の思い出を綴った「みそっかす(岩波文庫)」を読んでおりまして、それによりますと幸田露伴の最初の妻で、文の実母は、文七歳のときに亡くなっております。

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12:50 PM permalink | comments (4) | trackbacks (0)

June 1, 2007
  真間から菅野へ(8)

「手児奈霊神堂」、「弘法寺」を後に、真間川沿いを歩きました。この先は何処を如何に歩いてゆくかまったくプランしておりませんでしたが、以前もご紹介しましたサイト「真間散歩」さんにあった地図を思い出し、真間台地がぐうっと張り出したように突き出た先にあたります、現須和田2丁目あたりへ行ってみました。東西に走る路地を境に北側には台地が聳えたっているのがよく解ります。登ってみようかと考えたのですが、その考えを一掃させる光景が、台地とは反対側の南側にございました。


(click on the image for enlarged)

"習作・材木屋のテクスチュア May 2007"

May '07, @Ichikawa, Chiba.
Taken with the Nikon new FM-2 with the Nikkor 28mm f2.8 lenz.
Fuji Neopan 1600 Super Presto @EI 800, dev in Kodak X-tol (1:3)
Forte Polygrade RC, Semi-matt, dev in Home brewed D-72 (1:2)

なんとも立派な材木屋さん。その外壁が描くテクスチュアに惚れてシャッターを切りました。

その後、真間3丁目、菅野3丁目を歩きました。このあたりは私学が多く、文教都市といった面も持ち合わせているのですね。それら学校の裏にあたる路地を歩いていますと、松の木が多く目につき、またかつての砂地の面影も垣間見られます。次回は学校と松の木を同時に収められる構図を探ってみたいと考えております。

京成の線路を菅野駅で越え、平田2丁目にはいりますと、もう迷路のような路地路地路地。あまり遊ぶことはないのですがまるで家庭用ゲームをクリアしてゆくように、角を折れ、細いところを抜け、オバチャンに挨拶をし、猫にウインクをしてゆくと、千葉街道に出てきました。
その街道とJR線の間に通る路地を東へ。本八幡駅に到着したとき、午後6時を知らせる電子チャイムが商店街に響いておりました。

7:03 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

May 30, 2007
  真間から菅野へ(6)

真間山弘法寺へは、急な石段を登ってゆかなければなりません。そしてその途中には「涙石」と呼ばれる常に濡れているひとつの石がございます。おそらくはその石の箇所も地下水路の出口なのでしょう。湧きでるほどではなく、滲みだす程度の細い水路が通っていると想像するのでございます。

わたくしが訪れた日は石段の下におりましても太鼓の音がどんどこどこどこと響いており、寺内でなにか行われている様子が窺えました。
さて、石段を登りきりますと立派な仁王門に迎えられます。
太鼓の音はさらにその奥から聴こえてまいります。どうやら正面の祖師堂というお堂で、手児奈太鼓という女性によるグループが練習していたようで、その成果は地元の様々な祭りやイベントなどで披露されているとのことです。

寺内は、先日掲載しました鐘楼や、太田道灌によって寄贈され水戸光圀に「遍覧亭」と名づけられた茶室、樹齢400年の枝垂桜「伏姫桜」などが、逞しい低音を響かせる太鼓の音のなか、ひっそりと佇んでおり、悠々たる古くからの歴史を感じさせるに充分なロケーションでございました。
ところで、石段を登りきり、先の仁王門を潜らずに手前を右(東)にゆきますと、鬱蒼とした小さな森が待っております。

(click on the image for enlarged)

"習作・真間山の森 May 2007"

May '07, @Ichikawa, Chiba.
Taken with the Nikon new FM-2 with the Nikkor 28mm f2.8 lenz.
Fuji Neopan 1600 Super Presto @EI 800, dev in Kodak X-tol (1:3)
Ilford MG4 RC, Pearl, dev in Home brewed D-72 (1:2)

その森を抜けると、野球の内野グランド程度の大きさの草地になっておりました。戦国時代には城砦化されていた処の土塁跡だそうです。そして草地の先には、かつての入り江と市川砂洲、現在の真間、菅野から八幡にかけての住宅地が眼下に広がっていたのです。

Taken with my ケータイ

8:07 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

May 29, 2007
  真間から菅野へ(5)

JR市川駅附近は繁華な街でございます。その賑わいから逃れるように少し東に向かい、千葉街道を渡り、消防署からさらに一本東側の路地を北に向かうと、進行方向左側(西側)、丁度消防署の裏辺りに、松の木が茂っているのが見えます。
ああ、市川砂洲であったその上を歩いているのだなぁ。

市川駅からスタートした、わたくしの真間、菅野歩き。広い通り、商店が連なる通りを避けながら、京成真間駅を超え、さらに北へとまいります。しばらく歩くと目の前に護岸がしっかりと固められた川にぶつかりました。
真間川です。川幅はそれほど広くありません。
真間小学校の脇を川沿いに歩き、手児奈橋の架かった交差を右に。この小学校の脇を通る道は「手児奈橋通り」と呼ぶのだそうで、昭和の頃を感じさせる商店が並んでおりました。
その「手児奈橋通り」沿いを少し北へ向かうと、すぐに真間稲荷神社への参道がございました。
稲荷へお参り、そして後ろを振り返り、入り江時代の名残とも云われる「手児奈の池」を撮影、そして手児奈が祀られている「手児奈霊神堂」にもお参りをいたしました。


(click on the image for enlarged)

"習作・手児奈の池 May 2007"

May '07, @Ichikawa, Chiba.
Taken with the Nikon new FM-2 with the Nikkor 28mm f2.8 lenz.
Fuji Neopan 100 Acros @EI 50, dev in Ilford Perceptol (1:3)
Forte Polygrade RC, Semi-matt, dev in Home brewed D-72 (1:2)

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12:04 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

May 23, 2007
  真間から菅野へ(4)

JR総武線で都心から千葉方面に向かい、都と県の境にあたる江戸川を越えていますと、千葉県側の北の方角にこんもりとした台地があることを確認できます。もっとも目立つのは、その台地上に建つ和洋女子大のタワーですが、それも川を渡りきり市川駅に近づきますと、JR線に沿って建ち並ぶ中層のビル群によって視界から遮られてしまいます。

ところで手児奈伝説ですが、傷心の彼女は真間の入り江に入水したのです。すなわちかつてのこの地には海、もしくは湖があったというわけです。
そこで想像するに、現在のかなり内陸にまではいり込んだところに当時の海岸線があったのではないかということ。真間山のある台地が当時の陸地で、そこから南側は海であったのではないかと思ったのです。

調べてみますと、「真間散歩」というサイトさんの「市川砂洲」というページがたいへん解り易いです。
これによりますと現在流れている真間川の北側まで入り江となっているのが解ります。そしてJR総武線から見える台地が真間台地と呼ばれており、此処が手児奈がいた時代の陸であったようです。

またJR総武線の北側からしばらくは市川砂洲と呼ばれた砂地であったことが解ります。事前に拝見していました「Kai-Wai散策さん」の、エントリーにて、このあたりには松の木が多く見られるとのこと、それらはクロマツの育成に最適な砂地という環境を利用して、江戸時代に江戸城の修復利用のため幕府が植林したことを知ったのですが、先の「真間散歩」さんの地図上に描かれたように俯瞰的に捉えることができますと、ほほう、なるほどと、わたくしの鈍い頭にも反応がよろしいようでございます。

そこでわたくしは、この市川の真間から菅野へかけての撮影ロケハンを兼ねた散歩を、手児奈が入水しただろう入り江と、陸地の境を確認すべく、真間台地上の弘法寺から始めてみようと思いました。

11:59 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

May 22, 2007
  真間から菅野へ(2)

溝口健二監督による映画「雨月物語」を見よう見ようと思いつつ、未だあの名高き映像美の世界をこの目にしておりません。
興味を持ったのはこの映画を撮ったキャメラマン・宮川一夫氏のドキュメントを98年か99年ごろNHKアーカイブで見たのがきっかけでした。(宮川氏に関しては、撮影監督とか、カメラマンとか記すよりも、キャメラマンと綴るのがもっとも似合いそうという、まったく私的な理由によってそうさせていただきます。)
「役者だけじゃねぇ、キャメラも演技しているんだ」という哲学でもってフィルムをまわしていた宮川氏。その「雨月物語」の有名な霧の中を行く船のシーンでは、スタジオ内にプールを作っての撮影なので、天井からのライトが水面に反射してしまうのを嫌ってスモークを焚いたと。すると結果、期待以上の演出になったなどと、いまではごく普通の技術かもしれないことですが、それを戦後すぐの時代に行っていたこと。
また近景はコントラストを強く、遠景は弱く描くため、墨汁と筆で、あちこちセットの中を描き込んでいたというエピソードなど、たいへん興味深く、その技術の結果が作品としてどのような付加価値をもたらしたのか、「雨月物語」の鑑賞には大きな期待を抱いております。

「雨月物語」は1776年(安永5年)に出された上田秋成による怪異小説九篇からなる戯作が原作となっておりまして、映画版はその原作から「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2篇を脚本化したものだそうです。その「浅茅が宿」というのが「真間の手児奈伝説」をベースにかかれているとのことで、これは上田秋成も読まねばならなくなってまいりました。

さて、その「真間の手児奈伝説」とは、諸説あるようですが、奈良時代以前、国造の娘・手児奈は嫁ぎ先の国と出身地勝鹿との争いごとに巻き込まれ、真間に戻ってくる。ところが美しい手児奈は放っておかれることなく、複数の男達から求婚され、終いには争いごとにまで発展。その原因は自分にあると心を痛めて真間の入り江に入水するというのが代表的な説のようでございます。

この伝説、古代から多くの歌人、文学者に創造を喚起させたようでして、万葉集の高橋虫麻呂や山部赤人らがうたを詠んでおります。
また行基菩薩という奈良時代の高僧は、その手児奈の霊を慰めるために求法寺(ぐほうじ)という寺を建立されたとのことです。この求法寺が現在も真間の地にある(現在は--注--同じ読みの)弘法寺の創建時の名称でございます。


(注)737年(天平9年)に行基によって真間山求法寺(ぐほうじ)として創建された後、822年(弘仁13年)の空海の来訪を機に名を真間山弘法寺(こうほうじ)と改めたとされています。鎌倉時代の1276年(建治2年)、日蓮宗に改められ、寺名も真間山弘法寺(ぐほうじ)になったのだそうです。

7:59 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

May 21, 2007
  真間から菅野へ(1)

「菅野の記」が綴られた「父-その死(父・こんなこと 新潮文庫に所収)」は読んでいてたまらなく痛い文章でした。幸田文による、父・露伴の最後を綴った文章のことです。
戦後、寝たきりとなった露伴とともに娘・文、孫娘・玉の一家が菅野(現千葉県市川市)に移住し、そこで日ごと死に近づいてゆく父露伴、その壮絶な看護の日々。親子の愛憎、そしてその憎が単に情に絆されることで溶解してゆくのではなく、死に近づき本人以外のものになってしまいそうな父を、走り、汗をかき、つまづき、思い悩みながら看護するなかで、ついに父そのものが見えてくるに至る、強く静かな緊迫が描かれております。決して当時の菅野の地に思いを馳せることができる、そういう呑気な文章ではありませんでした。

さて、永井荷風も露伴一家と同じ昭和21年に菅野に移り住み、人生最後の13年間を過ごしています。ところが荷風を敬愛していた石川淳に云わせると戦後の荷風には読むべきものはないのだそうですが、それでも「葛飾土産」だけはよいとのことで、文庫には未収録のこの作品を読むにあたりまして図書館より全集ものを借りてまいりました。

葛飾とは東京都葛飾区だけでなく、千葉県市川市、埼玉県北葛飾郡などの江戸川流域の広い地域を指しておりますが、荷風が描いた「葛飾土産」は彼の終焉の地となった現千葉県市川市でのことであります。
まさに荷風の真骨頂のような文章、「東京の郊外が田園の風趣を失い、繁華熱閙の巷となった」ことに積憂の情を示し、それでもこの「市川の町の附近に、むかしの向嶋を思出させるやうな好風景の残つてゐたのを知つたのは、全く思ひ掛けない仕合せであった」と綴っております。
そして、わたくしは「真間川はむかしの書物には継川ともしるされてゐる。手児奈(てこな)という村の乙女の伝説から今もつて其名は人から忘れられてゐない。」という箇所でページを捲る手が止まってしまいました。

手児奈という乙女の伝説とは?


(注)イタリック体の箇所は、永井荷風著「葛飾土産」(筑摩現代文学大系 永井荷風集 筑摩書房刊)より引用

※「葛飾土産」=文庫には未収録と書きましたが、「荷風随筆集 上(岩波文庫)」に所収されていることを知りましたので、ここに訂正をさせていただくとともに、お詫び申しあげます。(2007/7/6追記)

11:59 PM permalink | comments (4) | trackbacks (0)

May 6, 2007
  Star Navigation(3)

夕方から降雨と雷鳴による荒天でしたが、これからライブを見にゆこうという遅い時刻には街は穏やかさをとりもどしておりました。
去る4月28日、店内がカフェにもなっている家具屋さんラケルメジェールへ、目黒まで行ってきました。
見ると頑丈なつくりをした大きなテーブルの上に楽器が乗せられています。あら素敵、此処が本日のステージですか。ライブ会場にするには狭い店内には、既に多くの人が集まっており、空いている席を探すとその大きなテーブル、舞台の真ん前にひとつ。ようし、今夜は一番前で楽しませていただきましょう。

テーブルの上に専用の台を置き、その上に乗せられた楽器は立派な25弦琴。その独奏でライブは始まりました。と思いきや、この奏者、少しだけ擦れ気のある声でうたも歌いはじめました。ゆったりと、ゆったりと流れる旋律は25弦琴の音色によく混じり、とても良い心地がします。
さらに、楽曲の展開、和声の展開にしっかりとした仕事の跡を聴くことができ、感覚的世界観とそれを支える音楽的充実のバランスを感じ、むむむ、やるなぁとオープニング曲から感心させられました。
2曲目で今日のユニットの、もう1名が加わりました。デュオになってのうた、その混じった声の質感という感覚的な面と、ハーモニーのつけかたという技術的要素と、ここでもそのバランスの心地よさが聴こえ一気に彼女達の世界に入り込んでゆきました。
ゆったりとしたメロディ、はねるアッパーな曲、どちらにも現れる、独特な柔らかさ、包み込まれるような感触。最前列から見上げると歌うお二人の周囲に点在するこのお店の商品であるアーティスティックな意匠の電灯の傘から透過する様々な色の灯り、ゆれるリズム、ゆれるふたりの白い衣装。

いっさいのPA機器を使わず、生の声と、楽器の音がこんなにも心地よく、決して音響的には響かない空間でありながら、心の根に響いてきたこの夜のライブを繰り広げたのは、25弦琴を奏で、うたい、カホンなどのパーカッションも同時にあつかった「かりんさん」、2曲目から登場したヴォーカリスト「玉井夕海さん」、おふたりによる「Psalm」というユニットでした。

あるご縁がきっかけで玉井夕海さんを知り、そしてご招待いただいたこの夜のライブでしたが、此処へ来る前にStar Navigationのこと、ホクレア号のこと、を教えてくださったのが玉井さんでした。
想いを描いて、星に導かれるように、海を渡ってゆくがごとく、「Psalm」のおふたりは前進されているようです。そこに、少しでも、なんらかのお手伝いができたら光栄なことだなぁと、この夜のライブを拝見して感じました。

玉井さんはかつて立った天草の地で、映画を撮りたいとずうっと思い描いていたのだそうです。そして脚本を書き、主演を為し、音楽もPsalmでつくった。そんな映画があるそうです。
もんしぇん」と題された映画、わたくしは未見です。とてもとても興味があります。いつか、近い日に、この映画の上映を見たく思っております。

3:19 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

May 3, 2007
  Star Navigation(2)

古代のポリネシアの人々は、六分儀、クロノメーター、方位磁針といった航法器具を用いずに、遙か彼方まで遠洋航海を為していたのだそうです。そう、彼らは天文学を利用した天文航法に長けていたのです。

Star Navigation

ところで、その「外海航海術を駆使して、太平洋に散在する島々にたどり着き、定住を始めたというポリネシア人起源・拡散説。その科学的な立証を主な目的に建造された(※注)」舟があるのです。
その航海カヌーは、「ハワイ語で“幸せの星(Hokule'a)”と名づけられ(※注)」ている『ホクレア号』のことです。
ホクレア号は、「1976年のハワイからタヒチへの初航海以降、現在までの航路距離数は10万マイルを超え(※注)」ているそうで、その航路距離をさらに延ばすことになる航海に今年の1月出航しています。

その航海の目的地は日本。

そしてホクレア号は4月24日に沖縄の糸満港に接岸しました。

そんなことを教えてくださった方がおりまして、わたくしは、いま、毎日、そのホクレア号の日本での動きを、彼らが発信するブログを通じてチェックしております。

このエントリーをアップした5月3日現在、船舶の航行が非常に多い海域を慎重に熊本に向け航海をしているとのこと。その後は長崎、北九州、山口、広島、宇和島を経て、そして6月上旬の予定で横浜までやってくるのだそうです。


ホクレア号航海ブログ(日本語版)
http://hokulea.aloha-street.com/

ホクレア号が日本にやってくる
http://www.gohawaii.jp/hokulea2007/

Spirit of Hokule'a(ホクレア号の詳細)
http://www.gohawaii.jp/history/


(※注)Spirit of Hokule'a内の文章から引用させていただきました。


(続く)

6:58 PM permalink | comments (4) | trackbacks (0)

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モンゴロイドが居住地域を拡大していった話しには、たいへんな興味を覚えます。
誰もが知っているのはベーリング陸峡(現海峡)を越えていった、アメリカ大陸への移住のことでしょう。現在の北米大陸に住む、所謂ネイティブ・アメリカンの部族には、このころからの古い古い歴史が口承伝として残っているのだそうで、各部族の代々のシャーマンによって語り継がれてきたとのこと。
その口承史は長い長い叙事詩のかたちをとっているのだそうですが、それを現代語に訳したシャーマンの血をひく女性がいらっしゃいます。
ポーラ・アンダーウッド氏です。
そしてその現代語訳は原題(と副題)をTHE WALKING PEOPLE - A Native American Oral History と云い、日本語訳(訳者:星川淳氏)版は「一万年の旅 - ネイティブ・アメリカンの口承史」として翔泳社より1998年に刊行されています。

わたくしは、その初版本が出るやいなや購入し読んでみたのですが、いやいや驚きの内容でございました。口承伝という性格上、どこまで史実に忠実なのかという問題もあるのですが、それ以上に太古の時代から社会性(著者の言葉では、それを知恵と云う)というものを育んできたこの一族の姿に、古代人に対する概念を一掃されたのでした。
また文中、おそらくはベーリング陸峡越えであろう箇所もあり、アドベンチャー的要素も充実しており、なかなか分厚い本なのですが、一気に読んだ記憶があります。

さて、ベーリング陸峡越えから5千年経過しますと、ユーラシア大陸のモンゴロイドは、次に太平洋の真っ只中に向けてどんどん進出するようになったそうです。
彼らは帆走能力を持つカヌーで、何千キロという遠洋航海を為していたと云います。

(続く)

3:07 AM permalink | comments (4) | trackbacks (0)

April 6, 2007
  花はどこへいったのか(7)

久々の「花はどこへいったのか」シリーズのエントリーになります。当シリーズ(6)にて記しました、幸田文原作、成瀬巳喜男監督による映画「流れる」のDVDをやっと見ました。

映画は昭和31年の公開、白黒作品です。女性映画の名手と云われる成瀬監督だけに出演者が凄いです。田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子、杉村春子、岡田茉莉子、とベテランから若手まで当時の豪華女優陣を揃え、さらに戦前の大女優、栗島すみ子を迎えての絢爛たるキャスティング。
と書きつつ、こういった布陣、そしてこれから書く、映画的内容は、監督が成瀬氏だからということでは決してなく、しっかりとしたマーケティングに支えられた映画会社(東宝)としての方針であったとするのが正解のように思えます。なぜならば成瀬氏は終生撮影所の監督であったからです。

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12:02 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

March 30, 2007
  その南に楽園はあるのか(水辺の風景番外)

前回エントリーより)
『その親水公園の西端、水門の上を「大門通り」が南北に走っているのですが、この写真を撮りました初回ロケハン時はここで一旦水辺から離れて、その通りを南に向かいました。』


この「大門通り」を南下しますと、永代通りとの東陽3丁目交差点に至ります。そして交差点を越えると道はゆるやかに左に曲がりながら、こんもりとした地形を超えることになります。ここにはかつて橋が架かっており、現在暗渠となっている元洲崎川を渡る「洲崎橋」の跡なのです。
現在「洲崎」という地名は使われておりませんで、この洲崎橋跡を越えた南側は「東陽1丁目」という地域になります。

東陽1丁目近辺地図

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8:21 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

March 20, 2007
  運河と堀に囲まれた町

「下町だからねぇ、幼い頃は銭湯に行くのが楽しかったよ。女湯には芸妓の姐さんたちがたくさんいて、たまに父と一緒に男湯に入れば、こちらはこちらで、背中はもんもんだらけの木場の職人連中がいてねぇ、そりゃぁイキな処だったよ。」


母は昭和10年、深川に産まれました。戦争が激しくなると疎開を強いられましたが、戦後、高校を卒業するまで、かの地で暮らしていたそうです。イキな町は母を伝法で鉄火な性格に育てあげ、それはそれは山の手の奥様たちとは月とすっぽんな勢いなのでございます(笑)

さて、わたくしは柳橋の作品を制作すると同時に、同じ水辺のシーンとしてこの深川を考えておりました。
母が産まれ育ったところ、そこはもう当時の姿を木場も含めて見ることはできないのですが、大川を西端に携えた現江東区は水辺の宝庫。縦に横に堀、運河が廻らされた処なのでございます。
この堀や運河は、戦後のあるころまで流通の要として水上交通に盛んに利用されていたそうです。

ところで東京だけでなくこの国の河川は徹底的に護岸工事が為されており、水辺は作りものの世界、風情など今となっては味わうことは叶わないのでございます。もちろん風情なんていう無責任な発言は、わたくしたちよそ者が口にすることでありまして、こういった護岸整備は流域の住民にとってたいへん重要なこと。増水時の害から生活を守る必須のことであります。
わたくしが柳橋を撮り始めた動機に、遅れて産まれたかなしさ、というものがあります。花街往時の姿を知ることなく訪れた者としての、残念な気持ち、それがわたくしを突き動かしたのです。もちろん作品として仕上げるにおいては、わたくしのセンチな動機など私的な感情は一旦脇におきまして、あくまで今の柳橋から得られる造形が勝負なのですけどね。

深川周辺の水辺も同様でございます。櫓を漕ぐ船頭、木場の木材、辰巳芸妓、そういったものは既に過去の風景でございまして、それでも写真という手を使って、水辺を描けるのか、そこがものづくりの根幹となりわたくしを奮い立たせるのです。
本来の深川からは少し離れていますが、まずは前回のエントリーでご紹介しています横十間川、そして仙台堀川の一部をロケハンしてみました。この河岸は親水公園と化しており、まさに作りものの極み、暖かい昼間などは散歩に興じる方々で賑わうのでしょうね。桜の季節に人の出はピークになるのでしょう。また夏場は水上アスレチックで遊ぶ子供たちを見ることができるでしょう。しかし、そういった特異な姿にはいっさい目を向けず、この作りものの世界の普段の景色を淡々と撮ってゆきたいのでございます。

そしてもうひとつ。暖かい季節になったら今年72歳になる母を誘って、深川不動さんと、富岡八幡に詣で、深川飯でも食って1日を過ごしてみようかなと考えているのです。

7:10 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

February 14, 2007
  本郷日記

「すみません、この辺りに一葉さんが暮らしてた処があるそうですがご存知でしょうか?」

ところどころに射す冬の午後の斜光がコントラストを描く路地で、木造家屋を背景に鉢植えの梅、その花を捕らえようとストロボの発光量バランスを調べていたところ、お散歩デートでしょうか、まだお若いカップルに尋ねられました。声をかけてきた女性の手にはガイドブックが握られていました。

浅学なわたくしは、樋口一葉の文学にしっかりと接したことが御座いませんでしたけれど、昨年或る方から勧められ、ようやく「たけくらべ」を読んでみますと、なんとおもしろい文章でしょう。雅俗折衷の文章のリズムのよさ、boy meets girlのお話しはその年齢にしか持ち得ず誰の心にも在ったであろう葛藤とにがさに溢れた名著であると、さすが5千円札であると、気づかされたのです。

わたくしが撮影をしておりました路地は、東京・本郷の台地を南東から北西に切り裂く谷にあたる菊坂、それに平行する生活路、菊坂下道のことであります。三脚を据えたところから10メートルほど先に、通常外部の者が進入するには憚れるような細い路地への入り口がひっそりと御座いまして、先のカップルに尋ねられました一葉さんの住居跡、といいましょうか、当時の住居は既に建替えられているのですが、井戸だけが静かに居残り、時代を重ねてきた風情ある空間が、その細い路地の中程にぽつりと待っているのです。
わたくしは先日仕事の打合せで、この菊坂を初めて訪れ、風情ある街並みに惚れまして、この日写真機を持っての再訪と相成ったので御座いますが、かの一葉さんの旧宅跡もそのとき発見しておりました。路地への入口に「見学の方は住民の迷惑にならないよう、お静かに願います、云々。」といった内容の表示が為されており、あらこんなところにと恐る恐る入路してみたのです。
調べてみますと一葉さんは貧困のため何度か住まいを移しており、此処現本郷4丁目には父親の死後、18歳からの3年間ほど住んでいたのだそうです。その後吉原隣の下谷竜泉寺町(現台東区竜泉)で雑貨屋を営み、そこも引き払って最後は当時の新興三業地、本郷丸山福山町(現文京区西片1丁目)に堕ちるに至ります。
話しを本郷菊坂に戻しますが、カップルに旧宅跡への入路を教え、被写体に戻り再度梅の花に向き合います。

今日に至っては絶滅したであろう鼻タレ小僧が飛び出してきそうな路地、長屋前に競って並ぶ鉢植え、陽の反射が眩しい石塀の倉がそびえる質屋、着物が似合う文豪が上階の窓をがらりと開け難しい顔を覗かせそうな風情に満ちた旅館などなど、この菊坂の谷と、急な坂を登った台地には、今日には忘れられた時間が、商業ビルやマンションによって周囲から隔てられ、ひっそりと流れているかのようです。
ところで最近のわたくしはそういった街の風情を状況説明的に写真で捕らえることを好まず、なにか、もっと、抽象的なかたちにして、懐かしむのではなく、今日を恨むでもなく、乾いた視線で切り取り、それでも尚、街の美しさを伝えることができぬものかと足掻いているので御座います。

一葉さんの「たけくらべ」には省略による暗示を随所に読むことができます。美登利が見つけ一輪挿しにいれた造花の水仙、信如が手にすることが出来ず降るしきる雨の中おいてゆかれる紅入り友仙のちぎれ。
省略による暗示、省略、暗示と呟きながら、重い写真機材を担いで急な坂を登ったり降りたりしていますと少し汗ばむ温かな午後で御座いました。
わたくしが暗示を手に入れることは未だ先のことになりそうです。

(メモ:2月12日、午後2時から4時ごろ、Taken with the Mamiya C330proS with the 105DS lenz. Presto 400 @EI 200)

7:51 PM permalink | comments (4) | trackbacks (0)

December 19, 2006
  花はどこへいったのか(6)

柳橋が舞台となった文学作品を紹介させていただきます。

●幸田文「流れる(新潮文庫)」

いわずと知れた露伴のご息女であられる幸田文氏。不勉強なわたくしはこのたび初めて文氏の作品を読んだのですが、いやぁ、これは素晴らしい小説でした。美しく粋な文体で斜陽になった置屋をめぐるトラブル、人情、かなしさが、そこで女中奉公することになった未亡人の視線で綴られてゆきます。文氏の他の作品も読みたくなりました。

なお、この「流れる」を原作とする成瀬巳喜男監督による映画が昭和31年に公開されており、田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子、杉村春子など当時を代表する女優陣によって演じられています。この映画も見てみようっと。近所のツタヤにあるかな?(関係ないけど「流れる」の置屋の女将は「つた奴」という源氏名でした。)

●山本周五郎「柳橋物語・むかしも今も(新潮文庫)」

元禄期を舞台にしたプラトニック・ラブ・ストーリーの極み。
作品中、
    「此処に橋があればよかったんだ」
     参詣人のなかでそんな話をしているものがあった。
    「まったくよ、どんなに小さくとも橋があればあんなにたくさん死なずに
     済んだんだ、なにしろ浅草橋の御門は閉る、うしろは火で、どうしよう
     もなく此処へ集まっちゃったんだ、見られたありさまじゃなかったぜ」
    「橋を架けなくちゃあいけねえ、どうしても此処にあ橋が要るよ」

                   山本周五郎/柳橋物語(新潮文庫)より引用

という箇所が印象的でした。もちろんこれはフィクションでありますが、江戸の大火事で逃げ切れなかった人々の多くが現柳橋界隈で命を落としたことを受けての、群集のなかから聞こえる台詞であります。

と、柳橋を舞台にした小説に浸かったあと、なにげなく谷崎潤一郎の「陰翳礼讃(中公文庫)」を読んでいたところ、その巻末の解説が吉行淳之介氏の筆によるもので、

      花柳界には私は縁がないが、稀に柳橋あたりに招待されることがある。
     このごろの芸者には日本髪の女はほとんどいないが、節分とか燈籠流し
     の日には昔ながらの姿を見ることがある。

             吉行淳之介(中公文庫/谷崎潤一郎/陰翳礼讃 巻末の解説)より引用

という文が! こんなところにも柳橋はその姿を垣間見せてくれました。

12:03 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

December 14, 2006
  花はどこへいったのか(4)

さて柳橋ですが、此処は元々「川口出口之橋」または「矢の倉橋」と呼ばれていたという説(橋の南側袂にある碑文より)と、最初から「柳橋」であったとする説(中尾達郎著「江戸隅田川界隈(三弥井書店刊)」からの孫引きになりますが、「武江年表」元禄六年(1693)八月の条に、この月、浅草に初めて柳橋を架す。 と記載。もちろん中尾氏は「川口出口之橋」説も紹介されています。)があります。ところがこの元々の木橋は大正の関東大震災で落ちてしまったそうで、現在架かる永代橋をモデルとし耐震に配慮された鉄橋は昭和4年に完成したのだそうです。
平成4年には親柱の補修を行い、同時に橋上歩道に御影石を敷き、前回(3)でご紹介しました簪を模したレリーフをあしらい、そして夜間ライトアップされるような照明も設置されて今日に至っております。

先に記した袂にある碑文には、

   春の夜や女見返る柳橋

   贅沢な人の涼みや柳橋  (ともに 正岡子規)

と子規の2句が紹介されているのですが、柳橋およびこの界隈は他の多くの文学でも取り上げられております。

10:50 AM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

December 7, 2006
  花はどこへいったのか(3)

 ...花はどこへいったのか(1)
 ...花はどこへいったのか(2)

さて、もうお気づきかと思います。このかつての花街、そして現在屋形船がひしめく柳橋付近と神田川をテーマに作品づくりをしてゆこうと動き始めたのです。
昨12月2日土曜日、休日出勤の後、現地にロケハンにいってきました。陽がだいぶ短くなったこのごろの午後、斜陽がどのように入り込むのか、暗くなるとどのような雰囲気を醸し出すのか、周囲の街並み、などチェックすべきことはたくさんありました。
そして一番肝心なこと、花街としての風情はもうほとんど残っていないことも確認してきました。しかし一度はそういう街として栄えたところ。きっと何かの痕跡があるはずです。古くからある社、稲荷、など未確認な場所もあるわけです。そして現在も魅力的な河岸。晩秋から初冬の季節の狭間、弱いとはいえ大分冷たくなってきた風が吹くなかでも何艘かの屋形船が客を乗せてでてゆきましたし、これが暖かい季節ともなれば、河岸の様子も華やいだものになるのではないか、そんな気がいたします。
そのような雰囲気を、スナップ的に、または景観描写として写実してゆくのではなく、より抽象化したかたちで捉えることができれば占めたもの。なぁんて理想を述べているのですが、、、そうやって自分を追い込むことも必要です。

yanagi-kanzasi.jpg

そうそう、ここがかつての花街であったことは街としても想い出深いものになっているようです。柳橋の欄干には芸妓の象徴である簪(かんざし)を模したレリーフがいくつも装飾されていました。ただしこれを写しても作品にはなりませんね。

11:20 AM permalink | comments (6) | trackbacks (0)

December 6, 2006
  花はどこへいったのか(2)

 ...花はどこへいったのか(1)

神田川の最下流、隅田川に注ぐ直前に架かる橋、柳橋。
この周囲は幕末のころより花街として栄えた区域だったそうです。
花街といえば黒板塀に囲まれた料亭を想起します。もちろんわたくしは花柳界で遊ぶことができる身分ではございませんが。ところが現在ここいらあたりを歩いても割烹と看板を掲げた1軒しか黒板塀に囲まれた料理屋を見ることができません。往時の老舗料亭のいくつかは残っているようですが、外観はたいそうなビルに変わっており、花街風情を楽しむことはもう相成らないわけです。そして前世紀の終わり、1999年には芸妓の組合も解散したとのこと。

ところで花街として栄える以前から河岸には多くの船宿が並び、大川(隅田川)向かいの両国への渡し、また大川上流へ、とくに遊郭のあった吉原へ遊びにゆく旦那衆を乗せる渡船場でもあったそうです。
現在の神田川は柳橋から、江戸通り(国道6号)を渡す浅草橋、そしてその隣の左衛門橋までのおよそ半キロの間、宴会用屋形船の発着場として多くの船宿が並び、何艘もの提灯を吊った船がひしめく特異な河川景観を見ることができます。

(続く)

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December 5, 2006
  花はどこへいったのか(1)

中央線・吉祥寺駅の南、御殿山1丁目に古くから建つマンション群の背後、切り落ちた断崖の裾から湧く水は井の頭公園の池を満たし、そして公園の南東から一筋の川となって流れ出てゆきます。
これが70年代に唄にもなりました神田川の源であります。

川は、ときに大きく、ときに小さく、南へ北へと蛇行しながら、徐々に東へ東へその流れを進めてゆきます。かつて梅雨から台風の季節まで、いくども氾濫し、流域にある住宅が浸水するニュースを多く聞きましたが、最近は地下の一時貯水施設が機能しているようで、そういった被害を聞くことはなくなったように思われます。
さて流域の自治体は1市8区におよび、もうここは下流と呼べるであろう新宿区と文京区の境を流れ千代田区と交わる飯田橋にて皇居外濠に合流しその一区画を担います。水道橋手前の小石川橋からは日本橋川を分流し、都市の河川景観としてたいへんユニークな御茶ノ水を経て、最後に古典では大川と呼ばれる隅田川に注いでその流れを終えます。

ところで隅田川に注ぐ直前に全長40メートル弱の鋼鉄製の小さなアーチ橋が架かっております。その神田川に架かる最後の橋の名を柳橋といいます。

(続く)

6:04 PM permalink | comments (4) | trackbacks (0)

September 15, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その13/最終回)

初めての作品展。

友人の紹介で、東京・駒場東大前の駅近くDINING BAR+CAFE jamにて僕の初めての作品展を開催したのは、1年前。2005年8月29日~9月30日まででした。


photo-ex05dm-sample.jpg

(写真展案内ハガキ)

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September 14, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その12)

自分でやりたい。

ライブハウスでのオン・ステージ・フォトを撮り、ラボに出す。ベタ焼きを見ながらストレート・プリントをオーダー。気に入ったものは、さらにコントラスト具合や部分的な濃度を指示して6つ切に伸ばす。
するとどんどん欲が出てきて、こうはならないものだろうか、あぁはならないだろうか、撮影の仕方に改善点はないだろうか、現像は任せきりでいいのだろうか? 自問の山になってきました。


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自家現像1本目のネガより
Ilford delta 400 @EI 400 / Ilford ID-11(stock)

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September 13, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その11)

よりテーマ性を持った写真を。そしてライフワーク。

気温がずいぶん低くなり、東京の銀杏も黄色く色づき始めたころ、ふとジャズ・ヴォーカルを聴きたくなりました。2003年のことです。
ジャズのライブハウスなんて10年くらい足を向けておりませんでしたので、今どんなシーンになっているか、かつての有名ライブハウスはまだ営業し続けているのか、なにもかも分からなくなっておりました。ところが今やネットがある時代。ジャズ・ライブハウスと出演ミュージシャンを調べ、ちょっと嘗てではありえなかったような瀟洒なライブハウスを訪れることにしました。


asuka04010803m.jpg

Jazz vocalist: Asuka Watanabe
Ilford delta 3200 @EI 4800. Scaned from negative, dev by Hit on.

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11:57 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

September 12, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その10)

最後のポジ

kei030701m.jpg


冷蔵庫の中にフジのポジ・フィルム、プロビアFが1本。ずうっと使わずに入れたままになっていました。もうすぐ期限も切れるし撮ってしまおうと思い久々にカメラに装填。1歳になったばかりの娘を連れ、家から少し離れた公園へ。広い芝のうえで娘を遊ばせながら写真を撮ろうという魂胆でした。

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September 11, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その9)

再び、白黒スナップを。

st_sby030701m.jpg


娘が自分で立ち上がり、歩くことができるようになり、そして1歳の誕生日をむかえたころ、僕はまたNikon new FM-2に白黒フィルムを詰めるようになりました。

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September 10, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その8)

2002年

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日韓共催ワールドカップにより、国中が熱病のようにサッカーにうなされていたころ。


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5:08 AM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

September 9, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その7)

旅行写真

このころ海外に旅行したときの写真はM.Niijima's travel photo and storiesというところに載せてあります。もともと僕のメインサイト、Sound Of Silenceのコンテンツとして作ったページなのですが、サーバーをレンタルした時点で切り離し、今では訪問者もほとんどない寂れっぷり。。。


bali-samp03m.jpg

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4:50 AM permalink | comments (3) | trackbacks (0)

September 6, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その6)

かつて一度だけ、写真コンテストなるものに応募したことがあります。
地元の商店街で行われた小規模なコンテストでした。商店街でのイベントを撮影し、商店街内の写真屋さんに提出しました。結果は入賞。賞品としてカメラバッグをいただき(いまそれはビデオカメラ用のバッグとして活用しています。)、写真はその地元の銀行内に張り出されました。実はその張り出しを見に行っていないので、他の作品がどのようなものであったかは全く存じません。
出品作はこちら。


st_mts000801m.jpg

Summer 2000 @Kawasaki. Fuji RHP @EI1600(= +2 stops).
Scaned from direct print.

6:43 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)

September 4, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その5)

専門ラボへ

st_sby_paint02m.jpg

"Street Painter"
Aug 2000 @Shibuya. Ilford delta 400 @EI 1600.
developed and printed by Hit on.


白黒写真においては、夜のスナップを始めたことで増感処理が必要になってきたことと、きちんとしたプリントが欲しいと考えるようになり、白黒専門のラボに現像・プリントをお願いするようになりました。現在もレンタル暗室のほうでお世話になっているヒットオンさんとのお付き合いが始まりました。2000年の夏ごろからです。


sp_gen01m.jpg

"Guitarist: Gen Akashi"
Dec 2001 @Jiyu-ga-oka. Ilford delta 400 @EI400 with the Sunpak B3000S flash light.
developed and printed by Hit on.

(Thanks to Mr. Akashi. 肖像使用のお許しをいただき感謝いたします。)

11:59 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

September 1, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その4)

ポジで撮る

写真を趣味にした最初のころはときどき写真雑誌も講読していたのですが、マニュアル・カメラの道にどっぷりと浸かることになった僕の頭には「適正露出」なる言葉が渦をまいていたのです(笑)
そしてポジ・フィルムはシビアな露出設定が要求されるなどという情報を得ると俄然カラーポジに対する興味が沸き上がりました。


st_kwg000702m.jpg

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7:29 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)

August 31, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その3)

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実家から借りてきたミノルタSR-1という1960年代の1眼レフ・カメラで写真を撮り始めたのですが、やがてこのカメラはシャッターが固まったまま作動しなくなりました。SR-1を長く使おうと思っていたわけではなく、とりあえずの練習用と捉えていましたので、すぐに新しいカメラの購入に走ったのですが、自分の過去を、家族の歴史を写し続けてきたカメラが動かなくなったことはたいへん寂しいことでした。(SR-1はいづれきちんと修理しようと考えております。)

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6:00 PM permalink | comments (3) | trackbacks (0)

August 30, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その2)

hst_bw05m.jpg


写真を撮り始めてすぐに念願の白黒ネガフィルムでも撮影をしました。近所のミニラボに出して大手ラボに取り次いでもらっていましたが、ネガと小さなサービス・プリントを得るのに中2日くらいかかっていたと記憶しています。

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August 29, 2006
  そんなに長いわけではないので写歴でも綴ろう(その1)

(その当時撮影した、イケてない写真とともに。)

hst_cl01m.jpg


ヘルムート・ニュートンジャンルー・シーフなどの白黒写真を見ることが好きでした。

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