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"習作・市川の光と陰 May 2007"
May '07, @Ichikawa, Chiba.
Taken with the Nikon new FM-2 with the Nikkor 35mm f2 lenz.
Fuji Neopan 1600 Super Presto @EI 800, dev in Kodak X-tol (1:3)
Forte Polygrade RC, Semi-matt, dev in Home brewed D-72 (1:2)
幸田文の「父-その死(父・こんなこと 新潮文庫に所収)」を読んでおりまして何度かぞおうっとした感覚に見舞われました。引用が多く情けないエントリーになりますことご容赦くださいませ。
その書を開く以前に同著者の幼女時代の思い出を綴った「みそっかす(岩波文庫)」を読んでおりまして、それによりますと幸田露伴の最初の妻で、文の実母は、文七歳のときに亡くなっております。
12:50 PM permalink | comments (4) | trackbacks (0)
「手児奈霊神堂」、「弘法寺」を後に、真間川沿いを歩きました。この先は何処を如何に歩いてゆくかまったくプランしておりませんでしたが、以前もご紹介しましたサイト「真間散歩」さんにあった地図を思い出し、真間台地がぐうっと張り出したように突き出た先にあたります、現須和田2丁目あたりへ行ってみました。東西に走る路地を境に北側には台地が聳えたっているのがよく解ります。登ってみようかと考えたのですが、その考えを一掃させる光景が、台地とは反対側の南側にございました。
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"習作・材木屋のテクスチュア May 2007"
May '07, @Ichikawa, Chiba.
Taken with the Nikon new FM-2 with the Nikkor 28mm f2.8 lenz.
Fuji Neopan 1600 Super Presto @EI 800, dev in Kodak X-tol (1:3)
Forte Polygrade RC, Semi-matt, dev in Home brewed D-72 (1:2)
なんとも立派な材木屋さん。その外壁が描くテクスチュアに惚れてシャッターを切りました。
その後、真間3丁目、菅野3丁目を歩きました。このあたりは私学が多く、文教都市といった面も持ち合わせているのですね。それら学校の裏にあたる路地を歩いていますと、松の木が多く目につき、またかつての砂地の面影も垣間見られます。次回は学校と松の木を同時に収められる構図を探ってみたいと考えております。
京成の線路を菅野駅で越え、平田2丁目にはいりますと、もう迷路のような路地路地路地。あまり遊ぶことはないのですがまるで家庭用ゲームをクリアしてゆくように、角を折れ、細いところを抜け、オバチャンに挨拶をし、猫にウインクをしてゆくと、千葉街道に出てきました。
その街道とJR線の間に通る路地を東へ。本八幡駅に到着したとき、午後6時を知らせる電子チャイムが商店街に響いておりました。
7:03 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)
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"Untitled"
May '07, @Ichikawa, Chiba.
Taken with the Nikon new FM-2 with the Nikkor 28mm f2.8 lenz.
Fuji Neopan 1600 Super Presto @EI 800, dev in Kodak X-tol (1:3)
Forte Polygrade RC, Semi-matt, dev in Home brewed D-72 (1:2)
真間大門通り、「真間の継橋」というレプレカの橋近くに建っておりました。かつては喫茶店であったという情報もあります。
7:02 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)
真間山弘法寺へは、急な石段を登ってゆかなければなりません。そしてその途中には「涙石」と呼ばれる常に濡れているひとつの石がございます。おそらくはその石の箇所も地下水路の出口なのでしょう。湧きでるほどではなく、滲みだす程度の細い水路が通っていると想像するのでございます。
わたくしが訪れた日は石段の下におりましても太鼓の音がどんどこどこどこと響いており、寺内でなにか行われている様子が窺えました。
さて、石段を登りきりますと立派な仁王門に迎えられます。
太鼓の音はさらにその奥から聴こえてまいります。どうやら正面の祖師堂というお堂で、手児奈太鼓という女性によるグループが練習していたようで、その成果は地元の様々な祭りやイベントなどで披露されているとのことです。
寺内は、先日掲載しました鐘楼や、太田道灌によって寄贈され水戸光圀に「遍覧亭」と名づけられた茶室、樹齢400年の枝垂桜「伏姫桜」などが、逞しい低音を響かせる太鼓の音のなか、ひっそりと佇んでおり、悠々たる古くからの歴史を感じさせるに充分なロケーションでございました。
ところで、石段を登りきり、先の仁王門を潜らずに手前を右(東)にゆきますと、鬱蒼とした小さな森が待っております。
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"習作・真間山の森 May 2007"
May '07, @Ichikawa, Chiba.
Taken with the Nikon new FM-2 with the Nikkor 28mm f2.8 lenz.
Fuji Neopan 1600 Super Presto @EI 800, dev in Kodak X-tol (1:3)
Ilford MG4 RC, Pearl, dev in Home brewed D-72 (1:2)
その森を抜けると、野球の内野グランド程度の大きさの草地になっておりました。戦国時代には城砦化されていた処の土塁跡だそうです。そして草地の先には、かつての入り江と市川砂洲、現在の真間、菅野から八幡にかけての住宅地が眼下に広がっていたのです。

Taken with my ケータイ
8:07 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)
JR市川駅附近は繁華な街でございます。その賑わいから逃れるように少し東に向かい、千葉街道を渡り、消防署からさらに一本東側の路地を北に向かうと、進行方向左側(西側)、丁度消防署の裏辺りに、松の木が茂っているのが見えます。
ああ、市川砂洲であったその上を歩いているのだなぁ。
市川駅からスタートした、わたくしの真間、菅野歩き。広い通り、商店が連なる通りを避けながら、京成真間駅を超え、さらに北へとまいります。しばらく歩くと目の前に護岸がしっかりと固められた川にぶつかりました。
真間川です。川幅はそれほど広くありません。
真間小学校の脇を川沿いに歩き、手児奈橋の架かった交差を右に。この小学校の脇を通る道は「手児奈橋通り」と呼ぶのだそうで、昭和の頃を感じさせる商店が並んでおりました。
その「手児奈橋通り」沿いを少し北へ向かうと、すぐに真間稲荷神社への参道がございました。
稲荷へお参り、そして後ろを振り返り、入り江時代の名残とも云われる「手児奈の池」を撮影、そして手児奈が祀られている「手児奈霊神堂」にもお参りをいたしました。
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"習作・手児奈の池 May 2007"
May '07, @Ichikawa, Chiba.
Taken with the Nikon new FM-2 with the Nikkor 28mm f2.8 lenz.
Fuji Neopan 100 Acros @EI 50, dev in Ilford Perceptol (1:3)
Forte Polygrade RC, Semi-matt, dev in Home brewed D-72 (1:2)
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12:04 PM permalink | comments (2) | trackbacks (0)
JR総武線で都心から千葉方面に向かい、都と県の境にあたる江戸川を越えていますと、千葉県側の北の方角にこんもりとした台地があることを確認できます。もっとも目立つのは、その台地上に建つ和洋女子大のタワーですが、それも川を渡りきり市川駅に近づきますと、JR線に沿って建ち並ぶ中層のビル群によって視界から遮られてしまいます。
ところで手児奈伝説ですが、傷心の彼女は真間の入り江に入水したのです。すなわちかつてのこの地には海、もしくは湖があったというわけです。
そこで想像するに、現在のかなり内陸にまではいり込んだところに当時の海岸線があったのではないかということ。真間山のある台地が当時の陸地で、そこから南側は海であったのではないかと思ったのです。
調べてみますと、「真間散歩」というサイトさんの「市川砂洲」というページがたいへん解り易いです。
これによりますと現在流れている真間川の北側まで入り江となっているのが解ります。そしてJR総武線から見える台地が真間台地と呼ばれており、此処が手児奈がいた時代の陸であったようです。
またJR総武線の北側からしばらくは市川砂洲と呼ばれた砂地であったことが解ります。事前に拝見していました「Kai-Wai散策さん」の、エントリーにて、このあたりには松の木が多く見られるとのこと、それらはクロマツの育成に最適な砂地という環境を利用して、江戸時代に江戸城の修復利用のため幕府が植林したことを知ったのですが、先の「真間散歩」さんの地図上に描かれたように俯瞰的に捉えることができますと、ほほう、なるほどと、わたくしの鈍い頭にも反応がよろしいようでございます。
そこでわたくしは、この市川の真間から菅野へかけての撮影ロケハンを兼ねた散歩を、手児奈が入水しただろう入り江と、陸地の境を確認すべく、真間台地上の弘法寺から始めてみようと思いました。
11:59 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)
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"習作・弘法寺の鐘楼 May 2007"
May '07, @Ichikawa, Chiba.
Taken with the Nikon new FM-2 with the Nikkor 28mm f2.8 lenz.
Fuji Neopan 1600 Super Presto @EI 800, dev in Kodak X-tol (1:3)
Forte Polygrade RC, Semi-matt, dev in Home brewed D-72 (1:2)
真間山弘法寺にございました立派な鐘楼です。日光東照宮にあるものと豪華絢爛さでは比べようはありませんが、スタイルが酷似しています。リンク先の写真は鼓楼ですが、陽明門を挟んだ反対側にも同じような鐘楼が建っておりました。
スカート状の裾の部分から、袴履きと呼ぶのだそうです。
この鐘楼から真間山に響く鐘の音を聞いてみたいです。
11:39 AM permalink | comments (0) | trackbacks (0)
溝口健二監督による映画「雨月物語」を見よう見ようと思いつつ、未だあの名高き映像美の世界をこの目にしておりません。
興味を持ったのはこの映画を撮ったキャメラマン・宮川一夫氏のドキュメントを98年か99年ごろNHKアーカイブで見たのがきっかけでした。(宮川氏に関しては、撮影監督とか、カメラマンとか記すよりも、キャメラマンと綴るのがもっとも似合いそうという、まったく私的な理由によってそうさせていただきます。)
「役者だけじゃねぇ、キャメラも演技しているんだ」という哲学でもってフィルムをまわしていた宮川氏。その「雨月物語」の有名な霧の中を行く船のシーンでは、スタジオ内にプールを作っての撮影なので、天井からのライトが水面に反射してしまうのを嫌ってスモークを焚いたと。すると結果、期待以上の演出になったなどと、いまではごく普通の技術かもしれないことですが、それを戦後すぐの時代に行っていたこと。
また近景はコントラストを強く、遠景は弱く描くため、墨汁と筆で、あちこちセットの中を描き込んでいたというエピソードなど、たいへん興味深く、その技術の結果が作品としてどのような付加価値をもたらしたのか、「雨月物語」の鑑賞には大きな期待を抱いております。
「雨月物語」は1776年(安永5年)に出された上田秋成による怪異小説九篇からなる戯作が原作となっておりまして、映画版はその原作から「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2篇を脚本化したものだそうです。その「浅茅が宿」というのが「真間の手児奈伝説」をベースにかかれているとのことで、これは上田秋成も読まねばならなくなってまいりました。
さて、その「真間の手児奈伝説」とは、諸説あるようですが、奈良時代以前、国造の娘・手児奈は嫁ぎ先の国と出身地勝鹿との争いごとに巻き込まれ、真間に戻ってくる。ところが美しい手児奈は放っておかれることなく、複数の男達から求婚され、終いには争いごとにまで発展。その原因は自分にあると心を痛めて真間の入り江に入水するというのが代表的な説のようでございます。
この伝説、古代から多くの歌人、文学者に創造を喚起させたようでして、万葉集の高橋虫麻呂や山部赤人らがうたを詠んでおります。
また行基菩薩という奈良時代の高僧は、その手児奈の霊を慰めるために求法寺(ぐほうじ)という寺を建立されたとのことです。この求法寺が現在も真間の地にある(現在は--注--同じ読みの)弘法寺の創建時の名称でございます。
(注)737年(天平9年)に行基によって真間山求法寺(ぐほうじ)として創建された後、822年(弘仁13年)の空海の来訪を機に名を真間山弘法寺(こうほうじ)と改めたとされています。鎌倉時代の1276年(建治2年)、日蓮宗に改められ、寺名も真間山弘法寺(ぐほうじ)になったのだそうです。
7:59 PM permalink | comments (0) | trackbacks (0)
「菅野の記」が綴られた「父-その死(父・こんなこと 新潮文庫に所収)」は読んでいてたまらなく痛い文章でした。幸田文による、父・露伴の最後を綴った文章のことです。
戦後、寝たきりとなった露伴とともに娘・文、孫娘・玉の一家が菅野(現千葉県市川市)に移住し、そこで日ごと死に近づいてゆく父露伴、その壮絶な看護の日々。親子の愛憎、そしてその憎が単に情に絆されることで溶解してゆくのではなく、死に近づき本人以外のものになってしまいそうな父を、走り、汗をかき、つまづき、思い悩みながら看護するなかで、ついに父そのものが見えてくるに至る、強く静かな緊迫が描かれております。決して当時の菅野の地に思いを馳せることができる、そういう呑気な文章ではありませんでした。
さて、永井荷風も露伴一家と同じ昭和21年に菅野に移り住み、人生最後の13年間を過ごしています。ところが荷風を敬愛していた石川淳に云わせると戦後の荷風には読むべきものはないのだそうですが、それでも「葛飾土産」だけはよいとのことで、文庫には未収録のこの作品を読むにあたりまして図書館より全集ものを借りてまいりました。
葛飾とは東京都葛飾区だけでなく、千葉県市川市、埼玉県北葛飾郡などの江戸川流域の広い地域を指しておりますが、荷風が描いた「葛飾土産」は彼の終焉の地となった現千葉県市川市でのことであります。
まさに荷風の真骨頂のような文章、「東京の郊外が田園の風趣を失い、繁華熱閙の巷となった」ことに積憂の情を示し、それでもこの「市川の町の附近に、むかしの向嶋を思出させるやうな好風景の残つてゐたのを知つたのは、全く思ひ掛けない仕合せであった」と綴っております。
そして、わたくしは「真間川はむかしの書物には継川ともしるされてゐる。手児奈(てこな)という村の乙女の伝説から今もつて其名は人から忘れられてゐない。」という箇所でページを捲る手が止まってしまいました。
手児奈という乙女の伝説とは?
(注)イタリック体の箇所は、永井荷風著「葛飾土産」(筑摩現代文学大系 永井荷風集 筑摩書房刊)より引用
※「葛飾土産」=文庫には未収録と書きましたが、「荷風随筆集 上(岩波文庫)」に所収されていることを知りましたので、ここに訂正をさせていただくとともに、お詫び申しあげます。(2007/7/6追記)
11:59 PM permalink | comments (4) | trackbacks (0)
しばらく更新を怠っておりますが、頑張って写真制作をしております。
先だっての13日、日曜は、休日出勤の後、千葉県市川市へロケハン散歩へ。JR市川駅より、真間、菅野、平田、八幡と、およそ6キロくらい歩き、JR本八幡より戻ってまいりました。
ロケハンのつもりでしたが、何カットかはよさそうなネガができましたので、早々に焼いてみたいと考えております。
そして本日、16日。今週の土曜も仕事がありますので週の真ん中で休みをいただきました。
軽い風邪ぎみだったのですが、せっかくの平日休みですし、水曜日しか行っていないイベントへと、横十間川へ。午前中、とても気持ちの良い5月の光と風にあたり生き返る心地。
午後は門前仲町へ。
大横川、大島川西支流、仙台掘、平久川、そして古石場川親水公園と、門前仲町を中心とした、東西1キロ超、南北1キロ弱の四方を廻るこれもロケハン散歩を行ってまいりました。
市川市、門前仲町、ともに詳細は後日エントリーしてゆきますので、少しお待ちくださいませ。
11:59 PM permalink | comments (4) | trackbacks (0)