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December 7, 2011
笑い、そして泣く、日々を暮らしてゆくなかで、わたしたちが自然に発する感情を如何に抑えることができましょうか。然し乍ら、怒るという感情は社会生活のなかで、殊にこの日本の社会のなかでは、なかなか表しにくいものではないでしょうか。
故にわたしたちはそれに代わる方法を試みたりするわけです。
ところで然し、その怒りもまたわたしたちに備わった自然に発せられる感情である以上、どこかで「ざけんじゃあねえ、ばっかやろう!」と叫びたい衝動を持ち、社会生活との狭間で煩悶することになります。そこにもし同じ事項に対し「ざけんじゃあねえ、ばっかやろう!」と叫ぶ者が現れたとしたら、どれほど勇気を得られるでしょうか。
怒りを抱えているのであれば人に任せるのではなく自分から発しろと、言うのは容易く、実際はなかなかできることではありません。そしてそれが社会的な怒りであった場合、現れた「ざけんじゃあねえ、ばっかやろう!」と叫ぶ者は、その事柄に対し怒りを感じた全ての者の代弁者であるのです。
もちろん隣で「ざけんじゃあねえ、ばっかやろう!」と叫ばれたら、そのことに怯えてしまう人もあろうと思いますし、その怯えもまた自然な感情の表れであり、斯様な人を等閑に付することをしてはならないと思いますが、それでもやはり同じ怒りを抱えているのであれば、代弁者の爆発的な叫びを、少しでも理解することは可能ではないでしょうか。
代弁者の登場は大きな熱狂を伴って共感され、その声は拡散されるでしょう。
アジテーションはときに不幸な行き先へ向かうこともあるという可能性を認識しつつも、3.11以後を生きるわたしたちにどうしてその熱狂的共感を止められるでしょうか。
posted by mniijima : Dec 7, 2011
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