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March 28, 2011
(個人的メモのため、推敲しておりません。)
3月11日
都内の職場にて。翌日に控えた、わたしが担当しているエンジニア、Hの仕事のために資料を揃えて、作業部屋へ持ってゆく。Hはこの日出勤していない。
そのHの部屋のソファで書類を整理していると軽い揺れが始まった。数日前に宮城県沖を震源とする地震があったから、その余震かと思う。しかし揺れは、横に振幅をもって増々大きくなる。かなり大きい。かつて経験したことのないほどの揺れ。
スタジオにいる場合、地震の際は、まずは出口の確保をしなければならない。分厚い扉を開け放つ。その先にある防火扉が揺れのためか、バタンバタンと音をたてて勝手に開け閉めしている。隣のスタジオからも人が出てきて、既に表に非難したようだ。念のため残っている人がいないか確認する。さらに隣のスタジオも確認。このフロアは大丈夫そうだ。他所のフロアも見に行こうとしたところ、既に確認してきた同僚が階段からやってきた。どのフロアも大丈夫なよう。揺れも既に一旦治まっており、もっとも近くにあったテレビをオンにする。日本地図に震度が記された画像を見て絶句する。宮城で震度7とは。
この時点で、携帯電話回線はもちろん、一般加入電話も不通。
外に避難していた人たちが戻ってきた。向かいの大学のタワービルがぐらんぐらん揺れている様を見て、恐怖を倍加させた人もいる。設計上正しいことかもしれないが、素人にとっては恐怖だ。
テレビをつけているのに気付き集まってくる。みな地図に示された震度を見て驚愕している。
仙台市出身の部下の姿が見えたので、震度について話す。彼の実家の様子を確認できる方法を探る。171がつながらない。(インターネット回線は生きているが)web経由でも駄目である。
わたしも家内に連絡したいが携帯回線、加入電話が不通であるので、gmail経由で彼女の携帯とPCのアドレスに宛てて安否を尋ねる。15:16に送信して、15:19に携帯から返信がきているので速いと思った。家内はauの携帯だが、アクセス制限が緩やかなのだろうか。
こういうとき、小学校では集団下校か、保護者引き取りによる下校になるのだが、肝心の連絡網=一斉メール配信が来ないので、母親たちは自主的に学校に向かったそうである。娘も無事、家内と一緒に帰ってきたことは16:12に確認できた。
このような災害等の場合、認証カードを持った保護者しか、子供を引き取ることができないルールになっている。そのため共稼ぎで両親とも都内で働いている家庭の子供のうち数人は、この後起こる帰宅難のため、深夜まで学校に残り、午前2時ごろようやく引き取られた子もいるという。たいそう不安であったろう。そして付き添った教師もお疲れであったろう。
社内でテレビをつけていると続々と津波が被災地を襲っているようだ。これから暗くなると、余震も含めて現地での恐怖は倍加するだろう。
首都圏の鉄道網も全て止まったままである。
この日の仕事は全て途中で中止となった。社外の方々で、車で来ていた人は次第に帰ってゆく。電車で来た人は動けないので、当社でしばらく待機している。暖もあるし、ゆっくりしてもらって構わないと声を掛けておく。
外出中の友人は電車が止まったため振替輸送のバスに乗ったそうだが、ひどい渋滞に巻き込まれているよう。地震の情報も限定的で不安なようであった。こちらはテレビとネットである程度の情報が入ってくるので、外出中の友や、停電中の家族に、メールで情報を順次送ることにする。
担当しているエンジニア、Hより16時過ぎに連絡が入る。人的被害はなかったが、千葉県佐倉市の自宅の内部が地震の揺れによって、多くの家具が倒れてひどいことになっている。自宅前の道路にも亀裂と段差ができている。翌日の作業を延期できないか、とのこと。
クライアントに連絡が通じたのは20時頃。この状況下では仕方ないですねと了解を得て、補填作業の日取りは翌日改めて相談することに。
川崎市の実家には、18時すぎにようやく電話が通じた。ネットも携帯メールも持たない家庭に連絡をとることがこれほど難儀であったとは。母は地震当時、たいへんな恐怖を感じたと言う。戦時中、疎開先でも米軍の空襲を受けた人が、である。
心配だったのは父のこと。数年前に煩った呼吸器系の病気以降、身障者手帳をいただき、酸素吸入をして過ごしている身である(歩くことは好きなので日頃は趣味の美術館巡りをしている程、体力は回復した身ではあるが)。この日はデイケアがあったが、地震後施設も停電となり早々に送られて帰宅してきたとのこと。
その時刻(電話が通じた18時ごろ)実家は停電が続いているようだったのでACが必要な酸素ジェネレーターが止まっていることを懸念したが、外出用のボンベが3本届けられた後の地震であったため、しばらくは大丈夫とのこと。
18時半を過ぎ、もう今日は社に泊まろうと思う(官房長官も無理に帰宅しないようにと薦めている)。
夕食を求め外に出る。コンビニの棚には商品がほとんど残っていない。かろうじてカップ麺を確保。靖国通りまで出て行った部下によると、車はびた一文動かず、歩道はもの凄い数の人たちが新宿方向にも、神保町方向にも歩いていると云う。帰宅者による歩行ラッシュだ。
先ほど電話が繋がった実家に、ひとつ言い忘れたことがあり再度かけるが、もう繋がらない。次に繋がったのは21時ごろ。このまま停電が続き父の酸素ボンベの量が減っていったら、或いは具合が悪くなるようだったら救急で近所の市立病院へ駆けつけるようにと告げる(どうやら、この市立病院は自家発電機能がないようであることを後日知るのだが、、、政令指定都市の市立病院がだよ、、、)
22時ごろか、近所の会社に務める方がツイッターで地下鉄が動き始めたことをつぶやく。彼とは方向は逆のようだが、同じ路線であったので東京メトロのサイトを監視続ける。まだ自宅も実家も停電中のようで、暖がとれず、懐中電灯を灯して入浴しふとんに入っているという家族と、実家の様子が心配になり、地下鉄の動向次第で帰宅することを決める。全行程を歩くと会社から自宅まで20キロだが、目黒駅まで動いてくれれば、その先は12キロほど。かなり楽になる。(この日、20キロくらい歩いた人は数多いたらしい。)
社のみんなも各々の路線に向けて帰りはじめた。ある者は徒歩で帰るという。途中駅の白金高輪まで地下鉄南北線が動いていることをサイトで確認し、わたしも駅に向かう。
23:30ごろ。するとなんという幸運だろうか、地下鉄の先、乗り入れしている私鉄線の終点駅まで直通の便がちょうどやってきた。反対の埼玉方面への便はたいへん混雑して、乗れない人も多くいたのだが、神奈川方面のこの車両は空いているとは云わないが、他者と接しないくらいのスペースは確保できる。
多摩川を越えると、神奈川県であるが、堤沿い道路のコンビニに灯りがある。マンション群からも灯りが見える。川崎市は停電から回復しているようだ。そして横浜市も。
自宅に着いたのは24:30ごろであった。家族は既に寝ている。電気は回復している。おそらく実家も大丈夫だろう。電話をしたいところだが、この時刻なので就寝していれば疲れているところを起こすことになるので翌朝まで連絡をしないことにする。何かあれば向こうから連絡がくるであろう。
余震が気になるので、シャワーのみ浴びて横になるが、少し興奮状態にあるようでなかなか寝付けない。
被災地では眠れぬ夜を過ごしていることだろう。明るくなれば、被害の大きさが次々に、わたしたちの目にも飛び込んでくることだろう。
posted by mniijima : Mar 28, 2011
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