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May 17, 2010
歌祭文は錫杖を片手に、もう片方には法螺貝をもって歌い語る芸能であったようです。多くコピーペーストされ続けた文献に、法螺貝は吹くものとして挙げられていたようなのですが、小沢昭一氏の聞き書き「日本の放浪芸」によりますと、法螺貝はメガホンの代わりなのだそうです。もちろん門付けの芸。
文楽の「新版歌祭文」の冒頭は、この歌祭文を、世話物本を売る繁太夫節の門付けに替えて演出が為されており、義太夫語りによる繁太夫節という複雑な状態を、ああさすがに繁太夫節は哀切な語り口だなぁなどと知った口を聞けるほど違いを感じることが出来なかったのは日本人として甚く悲しいことでした。
五月十六日の日曜日、待望の文楽による人形浄瑠璃を永田町の国立小劇場にて観てまいりました。
演目は先にも記しました「新版歌祭文」と、舞踏もので短いけれど華やかな「団子売」。
「新版歌祭文」は、ときに「野崎村の段」一段のみ上演されることも多いと聞きましたが、今回は上巻よりこの「野崎村の段」、休憩を挟んで下巻より「油屋の段」と「蔵場の段」を続けて上演とたっぷりした内容。門左衛門の弟子、半二によるお染め久松の心中ものでございます。
冒頭の繁太夫節の門付けが売った世話本がお夏清十郎の話し。この世話物が此処で引用されることが、この「新版歌祭文」のクライマックスのメタファーになっているんですね。
文楽の人形はご存知のとおり三名の人形師によって操られますね。主遣いを「頭(カシラ)」と呼び、彼の一挙手一投足に、左手を操る「左遣い」と脚周りを操る「足遣い」が即反応してゆく様はまったく見事なものでした。
「野崎村の段」では、久松と婚約をする、おみつの主遣いに吉田簑助。大夫に竹本綱大夫と竹本住大夫という切りが二枚(と言ふのだらうかしらん?)。人間国宝が三名も出演するという豪華な段でございました。
その大夫の語りと三味線の絡み、そして人形遣いの動きがシンクロして進行してゆく舞台は、古浄瑠璃の世界から、おそらくは義太夫節との邂逅と近松の本の出現によって高められた総合芸術性に支えられ、それが江戸、明治の時代を経て今日に至る芳醇な熟成を遂げているのでしょう、完全なる舞台芸術として在ることに感動を覚えたのでした。文楽すげぇ、と。
次回の東京公演は九月とのことですが、再び堪能してみたいと既に今から楽しみになっているのでございます。
posted by mniijima : May 17, 2010
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