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March 21, 2010
まだ劇場で文楽の生体験をしたことがございません。しかし文楽を見て、浄瑠璃を聴いておかなければと常々思っているのです。願わくば大阪の文楽劇場へ行ってみたいところですが、まずは東京・永田町の小劇場での鑑賞になろうかと思います。
その永田町での公演、先月はなんと「曾根崎心中」(夜の部)であったそうです。見逃したのは甚だ残念なことでした。
最初に観る演目としては門左衛門の世話物がよかったのです。
道行きっていいぢゃぁないですか。
ところで先日エントリーしました「河原者ノススメ」の著者、映画監督、篠田正浩氏の(映画作品の)特集が京橋のフィルムセンター(国立近代美術館)で開催されておりました(開期終了)。
もちろん1969年作の「心中天網島」もリストされ、終演後には篠田氏のトーク・イベントもあるとのことで(3月10日)行ってまいりました。これはもちろん世話物最高傑作といわれる近松門左衛門原作。そしてなんと音楽は故武満徹氏が担当していたことも、わたくしには興味を倍加させる対象でございます。武満氏は、この日本の古典文芸、芸能の頂点であろう作品に、いったいどんな音楽を付けたのでしょうか。
意外なことにオープニングの曲はガムランでありました。
出演者やスタッフの紹介テロップが重なるなか、劇場での人形浄瑠璃の裏舞台が手持ちカメラで写される背後に寄り添うよう、ガムランの響きが染み込んできます。異質。
ものがたり本編は心中を遂げた治兵衛と小春が横たわる河原(および其処に架かる橋)のシーンから始まりました。もちろん人形芝居ではなく、人間の役者による実写です。
紙屋治兵衛:中村吉右衛門(なんとまぁお若いころの)
遊女小春と治兵衛の妻おさん:岩下志麻(一人二役)
ところが横たわる亡骸の周囲には芝居の黒子が数名。映画としてこれは異質。
この黒子装束は、文楽の人形師につながるのは当然なのですが、さらには死穢に関わった人々をも想起させます。なにせここは河原なのですから。
ところで、治兵衛の家の店、居間、土間などを、同一空間で小道具の配置換えを行なうことによってシーンを分けてゆく演出が為されておりました。その配置換えはもちろん黒子が(映画のなかで、まるで劇場芝居のように)行なうのですが、あくまで予算的に縛られ、限られたセットを効率よく使ってゆくアイデアの一環として黒子を(黒子として)利用したと、終演後に行なわれたトークで篠田氏は彼らの存在理由を述べておりましたが、冒頭シーンの(心中した二人の)遺体の傍で登場した彼らが、その後も頻繁に現れるので、その存在が死、すなわち心中死のメタファー(或いは取り憑いた死神か)となっているように思えたのでした。
それはまったく強い印象を与える存在だったのです。
近松の原作を引いてしまいましょう。
明日は世上の言種に。
紙屋治兵衛が心中と。
あだ名散行く桜木に。
根堀り葉堀りを絵草紙の。
版刷る紙の其の中に有りとも知らぬ死神に。
誘われ行くも商売に。
疎き報いと観念も。
とすれば心ひかされ歩み。
悩むぞ道理なる。
(近松門左衛門作 心中天網島「名残の道行き」より。角川学芸出版)
その後、ものがたりは原作の冒頭、曾根崎新地の夜のシーンへと移り、原作に沿って話しが進んでゆきました。
ところが、背景の音楽は一向に和物が使われる気配がございません(一カ所だけ琵琶の音があるのですが、ベベンと効果音的一発)。終いにはトルコのシャルマイ(チャルメラやオーボエの先祖、有名な軍楽トルコ行進曲のメロディを担う楽器)まで聴こえてきました。その徹底ぶりに、篠田氏と故武満の謀事が薄々感じられてきたのですが、もうそのころ治兵衛は小春の喉を刺し、治兵衛は黒子に導かれ、手伝われて鳥居のようなもの(原作では水門でとされております。昔の水門があった場所はこのような姿だったのでしょうか?)から(晒のような)布を垂らして首を括り本懐を遂げたのでした。
冒頭で敢えて文楽の舞台裏を見せたこと、近松の本を使いながらも、それでもこれは実写の映画であることを強調したく、文楽とは一線を画す仕上がりにしたかったのではないでしょうか? 両者をつなぐのは近松=本と、そして黒子(方や人形遣い、方や劇の進行を促し、手伝う役ではありますが)だけ。
果たして終演後の解説で、武満は太竿三味線はいっさい使わないと宣言してこの作品に参加した(脚本づくりにも協力されている)ことを知りました。篠田氏はこの音楽について、故人についても多くをお話ししてくださったこと、たいへんな収穫でございました。
ガムランのプリミティブな響きと音律は、理路整然とした(進化した)西洋音楽からは窺えない人間そのもの、本性とか、本能とかを表しており、それはもちろん日本の音にも通じると考えていたことを明かされました。
確かにガムランが発する音には人間の生理にたいへんマッチするゆらぎがあるように感じております。殊にバリ・ガムランで舞台左右の楽団のピッチが少しだけずらされているスマルプグリンガンのようなスタイルは、そのピッチのずれだけ音波の干渉が起こり、それが人の生理にシンクロするように思えます。まさに西洋音楽の平均律とは対照的な音の世界。
斯様な音を採択したこの映画の深い味わいは決してエンターテインメントに落ち着くものではなく、正に芸術映画と呼べる作品ではないでしょうか。
posted by mniijima : Mar 21, 2010
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