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August 23, 2009
  フェルメールが描くリュートでノクターンを弾いてみることはできるのか

娘を稽古ごとに送ってゆく途中、区役所へ寄って期日前投票をしてまいりました。娘を送りとどけた後、迎えのときまで、書店で時間つぶしをすることに。ところが購入したかった2点を見つけたので早々にレジへ(わたくしのような変わり者が欲しいと思っていた本を2冊とも在庫している有隣堂さんは偉い)。そして時間がくるまでタリーズでページを捲っていたのでした。

・夜想曲集/カズオ・イシグロ著(早川書房刊)
・フェルメールの楽器 -音楽の新しい聴き方- /梅津時比古著(毎日新聞社刊)

「フェルメールの楽器」には、あの「トイピアノ」も所収されておりました。
ああ、藤倉大さんのピアノ協奏曲「アンペール」を実演で聴いてみたいなぁ。

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August 22, 2009
  世界は巨大なごたまぜであるが、画家はその中へも入ることができなかった

終戦の日、全国戦没者追悼式が行われる日本武道館のすぐ南、国立近代美術館へ父と行ってまいりました。
ゴーギャン展
月遅れ盆の日であったからでしょうか、この日、入場はまったく混んでなく、作品も(三鷹市美術ギャラリーでの牧島如鳩展のようにひとりで独占鑑賞できることはありませんが)見やすかったです。

今回の展示は作品点数でボリュームが乏しいながら、大作「我々はどこから来たのか 我々は何物か 我々はどこへ行くのか」を中心に据えたエディテングが秀逸であったように感じました。
展示はフランス時代、ブルターニュやアルルでの仕事から始まりました。
フォルムの徹底した単純化、平面である絵画が1千年以上かけて希求してきた立体への憧憬を破棄し、色彩の階調だけで眼前にあるものを捉えているように思えます。

この時代の各々のモチーフ、そのフォルムをここで見せておくことの意義。

タヒチへ渡ってからの作品は、ブルターニュでの作品からも感じていたのですが、徹底してゴーギャン自身の「よそ者」度が増してくるように思えてなりませんでした。被写体、モデルとの明らかな断絶がその視線から伝わってきます。

そして晩年の大作「我々はどこから来たのか 我々は何物か 我々はどこへ行くのか」へ。
生から死、創世記から黄泉の国へといった一大物語が単純なフォルムの組み合わせで成し得ており、組み合わせられた各々のモチーフはかつて見てきた1点1点の主題に重なってゆくのでした。わたくしはここで、この19世紀末に描かれました作品に同じ世紀のワーグナーの楽劇を重ねて観ておりました。
誤解を恐れずに云えば、両者とも「巨大なごたまぜ」であります。

そして最晩年、ゴーギャンはマルキーズ諸島へと渡りますが、ここでのモチーフのフォルムは弱々しく、生気のない、ひたすら死へ向かっているようなものになってしまっているのでした。そしてゴーギャンはその地で死ぬのですが、ひとり、よそ者として、旅立っていったのでしょう。

9月23日まで。

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August 11, 2009
  その火は人々に守られ、豪雨に晒されても消えなかった

三鷹市美術ギャラリーの在るビルから駅へと渡るテラスへ出てみますと、雲はより厚くなって、空をより暗く覆っておりました。今にも雨が落ちてきそうな午後、わたくしはJR中央線で駅を3つほど新宿方向へ戻ったのでした。

荻窪駅北口を出まして右へ向きますとバラックのような建物からよい匂いの煙が立ち上がっております。昭和27年に創業と云われております「鳥もと」のことでございます。かつて駅の反対側、南荻窪に住んでおりましたころ、昼間から景気のよいガヤガヤとした雰囲気に誘われ何度か一杯やりに入ったことがございました。

駅の出入口のすぐ脇、線路沿いの一等地です。なんでこんなところに、と今では思われるでしょう。その「鳥もと」が駅前再開発の名の下に店を畳むとの噂を聞きましたので、東京に残った最後のいくつかもしれません、戦後、あるいは昭和の残滓を味わっておこうと、この日伺ったのでした。

ビールと一緒に注文しましたレバーとハツが運ばれましたころ、強い雨がバラックを叩きつけ始めました。店員はさっさと店前の半透明のビニールをくるくると下ろし雨除けをつくります(冬は風除けになる)。おもてに最も近い仮設カウンターで飲んでいらっしゃった浴衣姿で華のある姐さん二人は店員の勧めで二階の座敷席(! わたしは上がったことなし)へ案内されてゆきました。
外では時刻通り発着を繰り返す路線バス、傘を差し小走りに駈けてゆく人々、頭から肩へとビショビショに濡らしながらこの店へ飛び込んでくる人、わたくしは奥のカウンター席からこうした光景を眺めつつ、此処からの人やモノの動きはもう見ることはできなくなるのだなぁと感傷に耽りはじめ、2本目のビールを躊躇なく注文したのでした。

さて、店の方に窺いましたところ、此処での営業は8月29日までとのこと。9月からは駅前をさらに東にゆき、現在2号店を出している向かいに新店舗を開店させるのだそうです。肉を焼く「鳥もと」の火はまだまだ消えないようでなによりでございますが、荻窪駅前に流れました時代の記憶は、此処を訪れた者たちの心の内だけに静かに灯ってゆくことになりそうです。

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August 9, 2009
  天空を臨むトラックの荷台

厚い雲に覆われた日曜日、JR三鷹駅前にございます、三鷹市美術ギャラリーへ行ってまいりました。駅前にこのような施設ができていたとは存じませんでした。

牧島如鳩展−神と仏の場所−
2009年 7月25日(土)〜8月23日(日)
三鷹市美術ギャラリー
【開館時間】 10:00〜20:00(入館は19:30まで)
【休館日】 月曜日
【観覧料】 会員=480円 一般=600円 65歳以上・学生(大・高)=300円
中学生以下・障害者手帳をお持ちの方は無料


牧島如鳩=まきしまにょきゅう(1892-1975)の簡単な履歴は上記リンク先で確認いただきたいのですが、ほとんど知られていなかった彼の作品群が巡回展というかたちで足利市から始まり、ようやっと首都圏へやってきたのです。これは見過ごせません。

正統的なイコン、正統的な仏画は、だんだんとクロスオーバーされてゆき、仏画的な顔を持つ聖母子像となったり、洋画的肉感の観音像となってゆくのですが、圧巻はある村で起こった連続多発的幻視体験を取材した「龍ケ澤大弁才天像」と、不漁に混迷した小名浜村漁港の依頼で制作した「魚藍観音像」でしょう。
上記のクロスオーバー化がもっとも進化し、双方の俯瞰絵には洛中洛外図的な要素も垣間見え、このような絵画をまったく見たことはございません。
しかも「魚藍観音像」のほうは漁港からの発注で、完成後この絵はトラックに乗せられ町中を走り回ったそうです(その後、めでたく豊漁が続いたとのこと)。
そうなのです。コレクターや美術館からの発注ではないのです。いままで見たことも無い観音様の姿が町中に晒される、これこそ芸術なのではないか!
会場のキャプションで如鳩は美術のメインストリームからははずれており、美術史的には門外漢であったとする記述が見られました。確かに(クロスオーバーした)技法は純粋なものではないかもしれません。しかし如鳩の心の中では神も仏も同様に尊ぶべき存在であったことは作品群からしっかりと発せられております。この作者の心の有り様は正しく純粋なものではないでしょうか。美術的権威から遠いところにあればあるほど、これら如鳩の作品が光り輝く存在に思えてなりません。いや、まったく、あっぱれな芸術作品を見せていただきました。

「龍ケ澤大弁才天像」や(千手観音)と同化した「聖母像」は、巡回が終了しました北海道立函館美術館のサイトでサルネイム画像を見ることができます。

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August 7, 2009
  夏の光、秋の風のなかで届いた一冊

少し風があって日差しは強烈でしたが過ごしやすかった朝。うちの2階のベランダと、道を隔てた向かいのマンションの間をレトロな双翼機のように気持ち良く飛んでいたのは赤とんぼ。
ああ、今日は立秋なのだと思い出したのでした。

午後、オンラインショップに注文しておいた書籍が会社に届きました。メール便で送付とのことでしたので到着は来週になるかしらと思っていたところ、意外にも早かった配達に満悦の体を隠せませんでした。

書籍は、私淑してやまない姐御によって著された「書棚と平台―出版流通というメディア」。通勤中の友としてページを捲るのが今から楽しみなのであります。

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