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June 17, 2009
ショスタコーヴィチの音楽はヴォルコフによる「証言」によってだいぶ偏ったイメージが定着してしまったようですが、本当のところは本人以外誰も解らないのではないかと思うのです。
彼が書いた初期の弦楽四重奏のいくつかが殊に顕著であると思えるのですが、時代性や思想的背景などとは関係なく純な響きで満たされており、唯々美しいかたちの音楽が其処に在るといった印象を持つことができます(これは古典的な濁りの少ない三和音で楽曲が作られているという意ではなく、あくまでも音だけによって音でしか表現できない種の音楽になっているということです)。
今回、庄司さんが映像作家のパスカル・フラマン氏と共作したビデオ作品では彼女が弾くショスタコービィチ「24のプレリュード 22番アダージョ」が流れるのですが、この曲も本来音楽以外のことを必要としない純な響きで満たされていると思います。ところがふたりはそれを映像作品に付加させている...
この曲を弾く庄司さんのなかに何が起こっているのか、それを想像しながら作品を観てみました。
ショスタコービィチの響きは断続的で、ある音を弾いたときに浮かぶものは映像作品のシーンで現れてくるような具象的なイメージではなく、もっと抽象的な「かたち」なのではないか? もっと音楽に密接な、フレーズの音形だとか、和音の積み重なりとか、そういう「もの」ではない「かたち」を本来伝えたく、そのために映像、動画という手法に変換、翻訳し、例えば波とか、女性の素足だとかを利用したのが本作品なのではないかと思うのです。この想像に至ったのは庄司さんの絵画をまず観て、そして上映が行われた、この順序によるところが大きかったのでした。
ところで毎日新聞のコラム「音のかなたに」のなかで、筆者である梅津時比古氏は、『音と絵、映像と音』の相互関係に着目し『断絶が孤独を際立たせている。』として、『断絶が介在して、音と絵などを遠くつなげている。』『孤独を徹底して極める在り方が、互いにかすかに共振する。』と記しておりますが、わたくしはそれが「断絶」ではなく「変換」または「翻訳」と受け取ったのです。とはいえ、変換、翻訳が必要なだけの隔たりがあることは間違いなさそうです。
(『』内は、毎日新聞 平成21年6月3日夕刊「音のかなたへ」より引用)
それにしても検索したかぎり、現段階ではこの展覧会のきちんとした評文をweb上で見ることができません。(たいていは紹介と、行ってきたよ程度)庄司さんの名を知る音楽ファンばかりが見にいっていて、美術界からは総スカンなのでしょうか。
「もの」でなくとも、それらを「かたち」在るものへ変換し現出させてゆく作業は明らかに創造行為であり、芸術行為なのだと確信しております。然もそれらは数多の美術家には決して見ることのできない特異な世界を描いているという点で、技術的な稚拙さ(があるとしても)それを問題にしつつも注目に値する展覧会であったと思うのですけれどね。
posted by mniijima : Jun 17, 2009
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comments
わ、おもしろ〜い。
イメージというものが ヴィジュアルだけじゃなくて 様々な感性で出来上がっていて、その何処かだけ(音楽とか絵画とか・・・)担っている芸術家は 意外にその辺りで 苦闘していらっしゃるものなのかもしれませんね。
そんな風に言語的に意識上に上らせていませんでしたが 成る程と思いました。
また、そのコラム 今から探して読んでみます。
M.Niijimaさんのおかげで また 鑑賞の幅が広がりました。
by 光代 : June 18, 2009 9:58 AM
光代さん、
今回の個展会場でありましたPUNCTUMのサイトに載っていますが「展覧会概要」に、庄司さんご本人は出展作品を『音楽の視覚的表現=「第2のインタープレテーション(解釈)」と位置付け』ているとあります。
世界屈指の技術をもった方が、ヴァイオリンで表現することだけに留まらず、さらなる音を、または作曲者による何がしかを、元曲から聴きだしているということですから、おそらく今後の演奏のなかに、より深いものを(ヴァイオリンで)音楽として昇華させ表現する可能性もあるわけですから、単に技術一辺倒の演奏家ではないことがよく解ったのでした。
by M.Niijima : June 18, 2009 2:20 PM