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March 10, 2009
交響曲におきまして、ゆったりとしたテンポの序奏が置かれるケースはハイドンの時代あたりでは定石であったのですが、段々と廃止されていった傾向にあって(いきなり第1主題を提示するインパクトはベートーヴェンの第五交響曲でその効果が最大限実証されたからでしょう)、ブラームスも第1交響曲以外では採用しませんでした。
その古典的なオプションであるゆったりとした序奏ではございますが、ブラームスはあくまでも19世紀の人。ハイドンの時代には違反と云ってもよい半音階的上昇音形を用い、古典派の先達の伝統を重視し感情を音で表現するのではなく、絶対的な音の構築による音楽を目指したブラームスが20年かけて拵えた作品の冒頭でいきなり古典派の枠組みを乗り越えているところに作曲家の強い意志を感じます。
ハンス=マルティン・シュナイト指揮、神奈川フィルハーモニー公演「名曲コンサート 珠玉の名旋律」後半の部、ブラームス作曲「交響曲第1番ハ短調 作品68」の序奏が重厚に始まりました。
前回エントリーしました二重協奏曲では周波数的に中域が持ち上がったような響きがございましたが、この交響曲では気になりませんでしたから、ホールの(席による)特性というよりもオケ・バランスだったのかもしれません。それにしても低弦が気持ちよく、抑えて和音基部を支える響きに徹する場合と、カウンターのラインを浮き立てる場合と、細やかに変化してゆくバランス。
濁った響き、そろいの悪さもいくつかございましたが(とくに冒頭のティンパニーは若干早かったのではないでしょうか)、それでもオケ全体としては前半の協奏曲以上にアインザッツの鋭さが目立っていたように思います。これは石田氏がいつもの席で大きく身体を揺らせながら弾いていることが多々起因しているのかもしれませんね。
2楽章。弦楽セクションが野を舞う蝶のように羽ばたき、オーボエが歌います。クラが追いかければ、フルートはそっと手を差し伸ばす。神奈川フィルの木管セクションの素晴らしさ。そして弦のひらひらとした羽ばたきで曲は高揚してゆくのです。そのような優しさ、慈しみ溢れる響きの中から石田氏が微風にゆらめく菜の花のような、か細いが、艶やかな、ひとり、独奏のフレーズを弾き、そしてオーボエが斉奏する。
春のはじめの野を夢見る陶酔。
ところで、わたくしなぞ昨今のシュナイト=神奈川フィルの噂を聞きつけてにわかにファンとなったのですが、長きにわたり神奈川フィルを応援されてきた方々にとってはきっと誇らしいでしょうね。我が町のオーケストラはこんなに凄いんだぜって、世界中の人々へ向けて胸を張れますもの。
そしてわたくしが大好きな中間部をもった3楽章。パパパーという3つの連続音動機が交差するそのめくるめく中間部は、かつてわたくしは転調を繰り返しているのかと思っていましたが、そうではなくこのパートはロ長調で統一されているのですね。神奈川フィルのバランスは高域楽器より、真ん中がふくらんでいてたいへん温かな中間部でございました。
4楽章。長く、そして深遠な響きの第1序奏から第2序奏へ。ホルンの旋律。ブラームスがアルプス滞在中、山の奥から響いてきたアルペン・ホルンを採譜したと伝えられておりますが、そのアルプス風を支える弦のトレモロ。訪れたことはございませんが、わたくしが愛するアルプスのお姉さん ハイジ(Heidi Broennimannさん)による素敵なブログ「ferntree photoblog」でエントリーされるような壮麗な景色がぱあぁっと眼前に広がったように感じました。
そしてあのベートーヴェン第9の歓喜の主題に近似したブラームスによるアレグロの主題が低弦により朗々と歌いだします。シュナイト氏の演奏で此処の展開部を聴いていますと、ブラームスのよく歌う旋律も実は単純な音型の組み合わせ、であった、もしくはでしかない、ことがよく解ります。そしてそれら単純な音型が複雑に入り組んできて低域から高域に至る音の伽藍を築きあげるのが交響作品の演奏なのでしょう。
曲は終結を迎えるべく次第に高揚してまいります。たいていの演奏では此処でアッチェレランド(テンポ的加速)をかけ、華やかなコラールへ勢いをつけてゆくのではないでしょうか。ところがシュナイト氏の棒は逆にリットをかけ今迄聴いたことがないような遅いテンポへと導き(彼と神奈川フィルのCDでもそんなことはなかったのです)、なんだなんだと思っているうちにそのコラールへ。音符の切り際まで減衰を認めない徹底したテヌートの果てにばっさりと持続音は切り落とされ、そしてまた充分なテヌート、そしてまたばっさりと。もの凄いパワーが凝縮されたコラールを浴びた全身から鳥肌がぞおおとたち、この曲の第1楽章からの演奏が、わたしの脳裏に猛スピードで回想的に甦ってまいりました。
その回想が現実の演奏に追いついてから以降は、いま目の前で奏でられている音が現実の響きなのか、回想の続きなのか認識できなくなり、それに伴って口腔の奥が痛くなった途端に目頭がどんよりとしてきて、大粒の涙がころりと鼻すじをつたわったのでした。
posted by mniijima : Mar 10, 2009
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comments
今 聞きながらこのエントリーを読んでいます。
とてもとても薄まったものであって、誤解しかねない事なのですが、どうにもこうにも追体験したくなったのです。
そして、大好きな第一交響曲の第四楽章の終結へ誘う部分、M.Niijimaさんが「曲は終結を迎えるべく次第に高揚してまいります。・・」とお書きになっていらっしゃる部分に共感しました。
もう何十年も前になります。
けれど、思い出したのです。この辺りに違和感があった事を。その当時でも明確に意識できていた訳ではありません。なのに、思い当たるのですから、音楽の記憶というのは心と身体の奥底に残っているのだなあと思います。
そして、是非とも そのシュナイトさんの演奏を聴きたく思いました。どんなに感動的な事でしょうね。
感動に厚みがあって 心に深く染み込んで行きそうです。
こうして丁寧にお書き下さった事で、長年 聴かなくなっていた交響曲を また聴くチャンスを得た事を大変嬉しく思います。
ブラームスの4つの交響曲には とても辛い思い出が絡んでいます。
存在するという事は それだけでも辛さを背負う事だと思います。
優れた表現は 同じように「存在の辛さ」を背負っていても そのままには表現せず、私達の魂の根底に囁きかけますね。
「私もだよ」って。
その時 やっとほんの少し 孤独という呪縛が緩みます。
表現行為のそのもっともっと奥にある魂に触れられるようでありたいと思っています。
by 光代 : March 14, 2009 4:58 PM
この公演を直接聴かれていない方が、遠くの地でエントリーを読んでくださり、そして長く聴いていらっしゃらなかったブラームスをもう一度聴いてみようと、しかもブラームスには辛い思い出が絡んでいらっしゃるとのこと、それでも実行されましたこと、音楽を愛する一人としてたいへん嬉しく思います。
音楽、ある楽曲の印象、記憶は、それをよく聴いていたころの記憶を一緒に保持しているように思えます。
簡単な例えですが、かつて付き合っていた人の部屋で一緒に聴いていた音楽があるとします。もう別れて久しく、かつその曲も以来聴いていなかったのに、たまたまその曲を耳にした途端に、当時の思い出が脳裏を占有するといったこと。
その甦った記憶には聴覚(はその曲で占有されますが)以外の感覚、(聴いていた部屋や、付き合っていた人の容姿といった)視覚だけでなく、嗅覚や触覚なども思い起こされてびっくりすることがございます。
ですから、辛い時に聴いた楽曲を再び聴くのは、さぞかし勇気のいったことではないかと、お節介にも思ってしまうのです。
ただしクラシック音楽は楽曲そのものよりも演奏による表現にてずいぶんと印象を異にすることがございますから、もし今後もブラームスを聴いてゆこうと考えていらっしゃるならば、あらたな音源を聴いてみることも一案かと思います。
シュナイト氏と神奈川フィルの演奏では2005年の演奏会のライブ盤が発売されていますが、今回の演奏はさらにさらに進化したものでした。もし今後、この日の演奏が盤になったならばお知らせをいたしますね。
ブラームスの音楽から、わたくしには、遅れて生まれた者の哀しさが聴こえてくることがあります。彼はベートーヴェンらと同時代に生き、そして肩を並べて作品を発表してゆきたかったのかもしれません。
時すでに数多の素晴らしいメロディーメーカー(例えばシューベルトとか)が時代を重ねて、かつ和声、調性の体系を崩壊寸前の極限まで持っていったワーグナーもそこにいた時代に、自分の存在を、歴史と天秤に掛け、研磨に研磨を重ねて20年の歳月を要して書き上げた第1交響曲からは、彼の生きる道、その決意が聴こえてくるようです。
本エントリー冒頭で記したことが、彼の決意の結果として作品に昇華された姿なのだと思っております。その半音階的上昇音形を用いて始まるこの曲は、ハ長の3和音、ドミソの和音で最後の楽章の締めを行うのです。
by M.Niijima : March 15, 2009 3:33 AM
「遅れて生まれた者の哀しさ」
良いキーワードを頂きました。
なるほど そのように解釈すると 交響曲の一番がよくわかる気がします。
私達の頃は ブラームスというとんフルトヴェングラー(古い!)とかやはりカラヤンとかミュンシュくらいでしたね。
また CDが出たら是非お知らせ下さいませ。
by 光代 : March 15, 2009 8:58 AM
光代さん、
遅れて産まれた者は如何に歴史と対峙するのか、その最も成功した例としてブラームスの楽曲を捉えることは無理のない考え方だと思います。ワーグナーの世界とまったく正反対の方向の、これまたひとつの回答だと思っています。
フルトヴェングラー! わたしはなるべく聴かないように避けております(笑)
ミュンシュの盤は評判が高いですよね。60年代でしたらベーム指揮、ベルリン・フィルのものが好きです。ベームはその後、70年代にはウイーンフィルと交響曲全集もつくっていますけれどね。
あと入手しやすく廉価なものではザンデルリング指揮、シュターツカペレ・ドレスデンの演奏のものが評判高いです。
by M.Niijima : March 16, 2009 1:07 AM