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August 20, 2008
  街に溢れる水の匂い(2)

夕立の降り始め、学校に通っていたころのプール、水にはそれぞれの匂いがあったことを思い出しました。沿道の方々による水のぶっかけ、消防の放水と、水びたしになりました道路から立ち昇る水の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、そのなかをびちゃびちゃ歩きまして、わたくしは清澄三丁目の交差点をあとに、森下駅へ向かいました。其処で、わたくしが深川を歩く際に、たいへん参考にさせていただいております「深川散策」の管理人さんであります、じんた堂さんと、そして「時差ボケ東京」のmasaさんとご一緒するために待ち合わせていたのでした。深川を歩くのにこれほど贅沢なことがありましょうか。このお二人と、森下より、バスに乗り、門前仲町を目指しましたが、いつもは永代通りを突っ切るバスも、この日はかなり手前、深川二丁目までしか運行していないようです。その先は、もちろん、幾許かの距離ですが徒歩で永代通りまで向かいました。

永代二丁目の交差点に着きますと、どうやら、まだ連合渡御の第一陣は来ていないようです。
ということは、と期待に永代橋方向を見やりますと、ゆっくりとこちらに向かってくる、神輿の集団ではない人々が見えてまいりました。紺地に襟肩から袖にかけて金赤の半纏。あれは木遣りではないですか、と仰るmasaさんの言葉に、はっといたしました。彼らはまさに木遣りの衆。じんた堂さんに由りますと、川並(かわなみ)と呼ばれました木場で筏を扱う者たちが歌い始めた、おそらくは労働歌がルーツでありましょう、その歌をうたいながら、こちらに向かってまいります。十二時に永代橋で連合渡御と合流、そして彼らを先導すると聞いておりました、その木遣りの衆の先導に間に合いましたこと、まことに運がよいと勝手に喜んでおりました。
そして木遣に続くは手古舞の姐さんがた。いま辰巳芸妓は絶えてしまいましたが、かつての芸妓さんの指導で手古舞の保存会があるようでございます。
木場の職人と、辰巳の芸妓、これぞ深川なのでしょう。わたくしの母も『下町だからねぇ、幼い頃は銭湯に行くのが楽しかったよ。女湯には芸妓の姐さんたちがたくさんいて、たまに父と一緒に男湯に入れば、こちらはこちらで、背中はもんもんだらけの木場の職人連中がいてねぇ、そりゃぁイキな処だったよ。(拙ブログ「運河と堀に囲まれた町」より)』と云っておりました。既に木場も、花街もございませんが、両者両所はこの土地の象徴として、人々の心に今も脈々と根付いているのかもしれません。

此処永代二丁目でも、消防のホースが待ち構えております。なにせ向かいは消防署なのですから。此処でのぶっかけ模様はmasaさんのエントリーに素晴らしい写真が掲載されております。
また場所を変え、ひとつ東側の交差点まで進んでみましたらトラックの荷台をプールにし、十数名の人たちがその荷台に乗り、ばっしゃばしゃバケツでぶっかけるシーンも壮絶でございました。こちらは、じんた堂さんのエントリー内に「こんな水かけ隊や、」という写真へのリンクがございます。いやはや、なんともご一緒させていただきながら、そのお二人におんぶにだっこのエントリーになってまいりましたが、最後は富岡様を越えまして、東冨橋へ至る交差点附近、其処は以西より少し土地が高くなっておりまして、西からやってくる神輿たちの縦列をかなり遠方まで見渡せる絶好のポイントでございました。これを見てしまいますと500ミリくらいの望遠レンズを仕込んで圧縮効果を使って撮りたくなってしまいますね。

祭りが幕引きとなるころ、既に人も街もびしょびしょに濡れた夕刻間際でございましたが、空の上からも大粒の雨が降ってまいりました。水道水の匂いは、たちまちのうちに雨の匂いへと変わり、それが祭りの終わりをこの街の彼方此方に知らせたように思えました。
そういえばカメラの水除け対策は施したものの、自分自身の水除けを忘れておりました。でも、まぁ、いいでしょう。わたくしはタオルを頭に捲き、傘を差すお二人の後ろから、地下鉄木場駅までのわずかな道を、祭りの余韻に浸る人々の間を、足早に抜けていったのでした。

11:28 PM permalink | comments (6) | trackbacks (0)

August 19, 2008
  街に溢れる水の匂い(1)

どうやら間に合ったようです。佃の埋設作業が始まるのを待たずに其処へ向かったのでした。
佃から、相生橋を渡れば、其処は越中島、その先はもう門前仲町で深川の中心街となりますが、わたくしは地下鉄大江戸線にて、モンナカを通過し、そのひとつ先の清澄白川までやってまいりました。清澄通りを少し南にゆきますと、東からやってくる資料館通りがございます。その通りこそ、七時半に永代通り、富岡八幡宮を出発しました神輿、その数、今年は全部で五十五基が一時休止をとる場所であるのです。清澄通り沿道の商店からはホースを伸ばし、歩道上にポリの樽を置き、せっせと水をくべております。それは彼の行為のために。
いまや深川という地域に留まらない、東京の祭りのひとつに数えられます富岡様の例祭、その三年に一度の本祭りのメインイベントとも云うべき、この氏子各町が繰り出す神輿を縦列して、深川一帯そして、隅田川対岸の箱崎、新川と廻り、永代橋を渡り、再び深川に戻り、富岡様へと帰ってくる「連合渡御」、その神輿の先頭は、まだ到着していないようでした。
この祭りは、水かけ祭りでありまして、沿道の方たちが水を用意していたのは、やってくる神輿、そして担ぎ手たちに威勢よく、水をぶっかけるためであります。わたくしもそのような中で撮影をするために前夜にわかに拵えた水除け(レインコートの袖を切り、手首を通すゴム部分をレンズの胴に、そしてファインダー部は覗けるように穴を開けておいたもの)をカメラにとおしていますと、資料館通りが色めいてまいりました。

やってきました、連合渡御の先頭が、氏子内、通常五十四基の神輿に、今年は奥州平泉から参加した一基を加えた全五十五基

今年は奥州平泉(岩手県平泉市)の神輿が参加することも話題の一つ。これは平成7年、平泉900年を祝う平泉祭に深川の神輿を披露したのが縁で、以来毎年7月の平泉水掛け神輿は平泉の名物行事になりました。そして今回連合渡御に始めて参加することに。(富岡八幡宮HP:8月17日神輿連合渡御 より引用)


は、相撲番付に似せ(階級分けはない)出発順を記しました駒番表に則り担ぎ出されるのですが、今年の第一番、三好三丁目四丁目の組が資料館通りのもっとも西側に着き、神輿を台座に下ろしました。比較的幅の狭い道路にひしめく担ぎ手たちと、彼ら彼女らの興奮と熱気、そして半纏から滴り落ちる水気で、息苦しいほどです。わたくしは一時の後、場所を移動し、清澄通りと清洲橋通りが交わる清澄三丁目の交差点近くで待機することにいたしました。沿道には多くの人が集まり始めております。
再び連合渡御の出発となり、神輿は順に従い、清澄通りを北へ向かってまいります。此処清澄三丁目の交差点で、神輿は左に曲がり、隅田川を清洲橋で越えるため西へと向かいます。此方彼方でバケツの水をかけられる神輿と担ぎ手ですが、この交差点ではさらに消防隊によります消火栓から引いた水の放射を浴びることになるのです。この水で興奮はさらに増し、神輿をうねらせ、そしてぐるぐると回り始める組も少なくありません。締めは腕を上に伸ばした位置まで神輿を高々と上げ、静止。これらは舞い上げ、差し上げと呼ばれているようです。そのような神輿にはひときわ大きな歓声と拍手が起こります。

さて、この連合渡御ですが、全長およそ8キロほどを練り歩くことになりますので、交代交代で、担ぎ手にはかなりの人的余裕が必要になります。ところでこの日は、猛暑が続きました東京につかの間の涼しい一日でありました。担いでいる最中、炎天下の日に比べてずいぶんと楽だったのではないでしょうか。反面、担ぎ終えて一旦組の後ろに回った方のなかには、少し寒そうにしている様子もうかがえたほどです。身体を冷やしすぎて風邪などひかれないとよいなと、他人事ではないような心地でございました。

一時間半ほど、そこにいたでしょうか、全ての神輿を見送る少し前に、わたくしは待ち合わせの場所まで移動することにいたしました。

(上記引用ページ、および連合渡御のルート参照:URL

12:41 PM permalink | comments (6) | trackbacks (0)

August 17, 2008
  住吉様の祭り

それらは盂蘭盆のころには既に佃小橋の両詰めに四箇所、そして小橋から隅田川に向かう此処のメインストリートの先、土手沿いに二箇所のあわせて六箇所に組まれ、設置されておりました。
佃の住吉様の三年にひとたびやって参ります本祭りのための幟旗をあげるための、それはそれは巨大な幟でして、確実に隅田川対岸の湊からは、そしてかつては恐らく築地本願寺あたりからでも優に見えたでありましょう、壮麗な幟、それらを掲げる旗竿を支えるよう組まれました基部。それらの非日常的な姿、それでも使い込まれた感のありますするりとした木の肌に親和感を覚えるほどのものがございました。
これらの基部を為す木材は、祭りの前の大潮の日、佃の掘割から掘り出され、そうして祭りに備えるのだそうです。そういえば江東区の和舟の船頭さんが仰っておりました。木は海水に浸けておくことで長くもつと。この木材たち、いったいどのくらい昔から使われているのでしょうか。まさか江戸のころからでしょうか。

さて、住吉様の祭りに一緒にと、ご近所ブログの方に誘われたのですが、生憎八月の二日には別の用事がございまして、まことに残念ながらご辞退申しあげたのですが、辞する旨をお伝えしたら急に佃が殊更に愛おしくなりまして八月一日に茅場町へ用事で出たあと、午後の暑い日差しを浴びる幟旗の下へ、ひとり、立っていたのでした。あちらでもこちらでも、まだ忙しく準備に奔走する人々を見かけ、たまらないものがこみ上げ、実際目頭があつくなってきてしまい困ったものでした。

残念至極な日を挟み、八月三日早朝。始発電車で佃へ向かい、船渡御、すなわち氏子地域を廻るため神輿を筏に載せて川をゆく行事を見せていただくため隅田川に架かります佃大橋上へとゆきました。遠くからではあまり事の成りゆきは判りませぬが、粛々と行なわれる神事を待ち、そして筏が岸を離れますと橋の上におります多くの人々から拍手がおこりました。(水上警察だか、消防の船が亀島川河口近くから、色つきの水を放水していたのは、祝賀の意味をこめていたと云えども、なんとも垢抜けないことのように感じましたが、、、)神輿の上に載りました鳳凰が川の風を浴びて、心地よさそうに尾を揺らす様が、長いレンズの先に見えてまいりました。
この日、仕事があったため神輿を載せた筏が勝鬨のほうへ下ってゆくのを見届け佃を離れたのでした。


半月ほど経ちました八月十七日。この日は大潮。佃小橋の下の掘割も水が大きく引くこの日にあわせ、あの大きな幟旗を支えた基部の木材を堀の下へ埋める作業があるとのことで、予定時刻の八時、その少し前に、またまた佃に現れてみましたが、職人さんの話しによれば、今日は潮の引きが遅いと、実作業は九時からかなぁとのこと。それでも堀に浮く、筏状に並べられた木材のうえに塩をまき、御神酒を堀に注ぐ様子(決して神主さんがやってきて粛々と行なうのではなく、職人たちがまるで堀にホースを降ろし、筏のロープを調整するかのごとく、一連の作業の流れの中で行なわれたのでした。)を見ていましたら重機がやってまいりました。このクレーン車で筏を吊り上げるのでしょう。掘りを区切りました埋める処からもポンプを使い水を強制的に排出する作業も始まりましたが、わたくしはこの日訪れる、もうひとつの場所へ向かうために、これまた残念ではございましたが、佃の掘りをあとにしたのでした。

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August 15, 2008
  いま、ひびく歌たち

ベルリオーズ(エクトル・ベルリオーズ 1803~1869)という作曲家は、わたくしにとって、彼の作品14「幻想交響曲-ある芸術家の生活のエピソード」を十代最後の年に初めて聴いて以来、特別な作曲家となりました。19世紀に花開いたロマン派音楽、その最前衛の作曲家であった彼の管弦楽法は、後のマーラーやR・シュトラウスに与えた影響も大きく、彩り豊かな彼の管弦楽に魅了させられた人は数知れないでしょう。
今夜は彼の作品の中でもひときわ巨大な、作品5「死者のための大ミサ曲-レクイエム」を聴いております。
レクイエムと云えば、モーツァルトや、イタリアの大オペラ作曲家、ジュゼッペ・ベルディを思い起こす方が多いと思いますが、ベルリオーズによるレクイエムも記念碑的大作でありまして、8名10組のティンパニーが加わる大管弦楽、テノール独唱と混声合唱、そして4組の小編成金管楽器隊を会場の4隅に配置させることが指示されております。

わたくしはレヴァイン指揮、ベルリンフィルのものと、もう一組、コリン・デイヴィス指揮、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団演奏のCDを所有しておりますが、今夜は後者を選択。
ベルリオーズという作曲家を現代におきまして再認知させた功労者でありますデイヴィスは1969年にもロンドン交響楽団とこの曲を録音しておりますが、ドレスデンとの盤は、1994年2月14日、すなわち第二次世界大戦中、連合国軍の空襲により十万人前後の犠牲者を出したドレスデン爆撃、その五十周年を翌年に控えた日に、英国を代表する指揮者が、ドイツを代表するオーケストラを振った歴史的な演奏会を収録したものです。

わたくしにとって戦争とは、父母、そして祖父母が経験した空襲の話しがもっとも重い意味を持って根付いております。
空襲がひどくなり、門前仲町2丁目の母は静岡の沼津に疎開させられましたが、そちらにも爆弾が落ちてくる日が多くなり、次には栃木に移ったそうです。モンナカに残っていた祖母は如何にして戦禍のなか逃げてきたのか、彼女から繰り返し話しを聞かされたのは、もう遠い昔のこと。戦後、深川に戻ってみれば、一面焼け野原。結局戦後は亀久橋近く、平野へ住を移したのだそうです。

単に巨大で爆発的なエネルギーに支えられた管弦楽だけでなく、繊細な対位法ラインを形作るベルリオーズのレクイエムの合唱に耳を集中していますと、今夜のわたくしの脳裏には、いまや東京のどことも変わらぬ、門前仲町から平野までの景色が思い起こされます。
折しもあれ、深川は富岡様の例祭の時期。今年は三年に一度の本祭り。17日には神輿連合渡行と云い五十五基の大神輿が連なって氏子各町を練り歩く圧巻の行事が待っております。もちろんLacrymosaの美しいメロディより、わっしょいという怒号と伝統的な木遣歌のほうが深川の町にはお似合いであることは云うまでもございません。

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August 13, 2008
  いま、そこに咲く花(18)

袖擦宵景の宵

蒸し暑さが続いた梅雨明けのころ、めずらしく心地よい風に桜木の葉がそよぐ宵、わたくしはいつもの道(これと、これ)を経て、神楽坂へと向かいました。
熱海湯脇の路地階段で、これもまたいつものように三脚を立て、そして既に知っている露出値に写真機をセットし、人が来るのを待ちます。此処に飽きると、写真機を仕舞い、そして移動。和可菜の前でまた同じように。

昨年も撮影をしました「袖擦宵景」、そのイメージを再び具現化するために、浴衣姿の人々が多く集まるほおづき市のある晩(今年は7月23日、24日に開催)に出かけていったのでした。ほんとうは二日間あるほおづき市の両日とも撮影に出かけたかったのですが、二日目は仕事を抜けることが叶わないことを予め判っておりましたから、一日目だけ、昨年から増長したイメージを収めるために集中して臨むことになりました。
引伸ばしプリントをおこなう時間をまったくつくれていないのですが、それでもこうして撮影だけは行なっているのでした。


(参考エントリー)
平成19年9月6日 / いま、そこに咲く花(6)/ 袖擦宵景(1)

平成19年9月14日 / いま、そこに咲く花(8)/ 袖擦宵景(2)

平成19年9月20日 / いま、そこに咲く花(10)/ 袖擦宵景(3)

平成19年9月26日 / いま、そこに咲く花(12)/ 袖擦宵景(4)


拙ブログでの神楽坂の話題は、サイト内検索(右列下部にございます)にて「いま、そこに咲く花」のワードで引いてくださいませ。

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