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November 19, 2007
聖橋をくぐり、JR御茶ノ水駅の真下に出てきますと、先をゆく、小学生たちを乗せた1号船が停まりました。30メートルほど離れて、わたくしたちの2号船も停まり、なにごとかが始まる予感に期待していますと、前の船の子どもたちが一斉におだんごのようなものを川に投げ込みはじめました。
当船に乗るスタッフの説明によりますと、川を浄化させる菌を拳大のだんごにして、それを投じているのだそうです。
この有機物による浄化作戦が少しでも実を結ぶことを願っています。
ところで、この様子は御茶ノ水駅ホーム上の人々や、駿河台上と湯島側、東京医歯大病院前を結ぶ、お茶の水橋上を歩く人々からも注目を浴びておりました。おそらく魚の餌でも投げ入れているのでは、と思われていたかもしれませんね。
さて、この附近は駿河台と、湯島ー本郷の台地に挟まれ、神田川はたいへん深いところを流れておりますが、此処が江戸初期につくられた人工の渓谷であることはあまり知られていないのかもしれません。
元々此処には川は流れておりませんでした。平川と呼ばれた流れは、現水道橋駅の少し上流から、南流し、現皇居のほう、江戸城の方向へ流れておりました。
それをまず15世紀に太田道灌が流れを少し東側に移し、現在の日本橋川とほぼ同じ水路ができました。
江戸開府以降、川の氾濫による城や、周囲の被害を無くすため、この江戸城附近を流れる水路への負担を軽減するため、現在の主水路(=神田川)を掘ったのです。最大の難関はこの湯島本郷、駿河台の山を抜けるための渓谷をつくることだったようです。
因みに先に紹介しております下流域の浅草橋附近では、右岸に堤(そして柳を連ねて植えておりましたので柳原堤と呼ばれていたそうです)を築いて、武家屋敷が多く並ぶ城下方面への水の浸入を防いでおりました。すなわち氾濫したときは請地とした左岸側に溢れた水を流すようにしているのです。ところがそこには下町、町人の街が広がっておりますが、この下町の広がりが神田川造成の先か後か、気になるところです。
いずれにしろ、このような大規模な土木事業が可能であった幕府の力というものに驚きを隠せません。
posted by mniijima : Nov 19, 2007
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