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July 14, 2007

  日本橋魚河岸

前回のエントリーにて、わたくしの祖父は魚河岸で働いていたことを、築地に移ってからは仲買人として、まだ河岸が日本橋にあったころは、卸し会社の社員であったと記しました。日本橋には魚河岸があったのですね。

日本橋の河岸は現在の日本橋室町1丁目を中心に、さらには現三越新館が建っております本石町1丁目あたりまでのかなりの範囲に広がっていたそうで、往時の活況ぶりが伝わってきます。
「半七捕物帳」の岡本綺堂は「魚河岸の一年(風俗江戸東京物語 河出文庫に所収)」という随筆を書いておりまして、明治のころの日本橋河岸の様子がたいへんよく解ります。
「お江戸の中央(まんなか)といえば日本橋、江戸ッ子の標本(みほん)といえば魚河岸の大哥(あにい)。(「魚河岸の一年」より引用)」でありまして、ここと、吉原だけは別世界、別天地と綺堂は書いております。
またこのころは冷凍技術や、大型冷蔵庫もなかったのでしょう。春以降は魚の鮮度をいかに保つのか、生簀に活魚を放つのは、こういった面での工夫だったようです。

同じ岡本でも爆発の芸術家、太郎氏の父君、漫画家の一平氏の自伝的小説「どじょう地獄(へぼ胡瓜・どじょう地獄 岡本一平 旺文社文庫に所収 絶版のため古書で購入)」では、威勢のよいあにいの姿が描かれております。
いきなり魚屋、すなわち顧客に向かって、
『やい、鼻くた。買はねえか。いいさはらだ』
ですからね(笑) 鼻くたとは、鼻がひしゃげた人のことだそうです。で、鼻くたの魚屋は、
『ひな(品)がひ(気)にひ(入)らねい』
と返答します。「し」と「ひ」をきちんと発音できない江戸訛りと、ひしゃげているせいかきちんと音が鼻に抜けてこない感じがよくでています。
『生意気言うねえ。鼻くたのくせに。小田原の近海ものだ。お前達に文句を言われる肴じゃねい。三遍廻ってお辞儀をして頂いて置きや。損はねえぞ。やい、鼻くた』
って、もう喧嘩をふっかけているようですね。(『』内は「どじょう地獄/岡本一平著 旺文社文庫」より引用)

その気風こそ、別天地と呼ばれた所以なのでしょう。


わたくしは子供のころ、とにかくいたずらばかりしていたガキでしたから、当時祖父が生きていたのならば、「おい、このクソ坊主、いたずらばかりしてやがると、しまいには日本橋川に突き落とすぞっ」って怒られたかもしれませんね。


ところで、その日本橋河岸の成立はたいへん古いものだと知りました。

徳川家康が天正年中(1573~1593年)に、大阪の住吉神社に参拝するとき、川を渡るのに渡し舟がなく困っていたところ、安藤対馬守が佃村名主の孫右衛門に命じて、漁船で無事に川を渡ることができたのだそうです。
それを機会に、家康と孫右衛門の関係が始まり、家康伏見城在城の際には御膳魚の調達に務め、徳川の軍が瀬戸内海などを運行する際の手助け、そして大坂夏の陣、冬の陣においても海上偵察の役目を務めたのだそうです。
家康は孫右衛門の屋敷内の大きな松三本を見、木を三本合わせれば森となる、今後は森孫右衛門と名乗るがよかろうと云い、孫右衛門はその後、森姓を名乗ることになったという伝説もあるのだそうです。

さて、家康は孫右衛門らの活躍に対しまして佃村、大和田村の漁民に大量の米(大阪城の焼け米だったそうです)を与え、さらに大坂表町屋敷地一万坪あまりを拝領されたのだそうですが、この土地には持主があったため、両村の漁民らは困ってしまい(なんともいい加減な太っ腹ぶりですね)漁民らはその旨を訴えますと、代わりとなることを願い出よということで、江戸に出て末永く家康公にお仕えしたいと申し出たのだそうです。
そうして江戸に来た森孫右衛門ら一行は、当時江戸向島と呼ばれた地をを拝領し、出身地名をとり「佃島」と改め、漁業を営み、引き続き御膳魚の調達に務めたのだそうです。
そして孫右衛門の子とも、弟とも、孫とも云われる森九右衛門が、幕府に献上した魚の残りを市中に売ったことが魚河岸の始まりとされているようです。

posted by mniijima : Jul 14, 2007

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comments

こんばんは。今日は雑談にお邪魔しました。M.Niijimaさんは生粋の江戸っ子でいらしたのですね。私は東京といっても多摩地区で育ちましたのであまり江戸情緒などは感じずに過ごしました。それでも、M.Niijimaさんよりだいぶ先に生まれておりますので、日常会話の中で少しは江戸情緒が残っていたかなと今振り返って思い出します。ある上品なお婆さまが「よござんす」といったのを聞いて私は「え!やくざみたい」といったら母が「あれは、東京の方言なのよ」といってました。その他奥さんのことを「ご新造さん」とか「おかみさん」と日常、言っていました。子母沢寛の「勝海舟」を読んでいると「そうでやんしょう」という言葉が良く出てきます。そういえばそんな言葉も聴いたことがあるような気がします。今ではこんな言葉はすっかり消えてしまいました。M.Niijimaさんのお母様ならもっとご存知でしょうね。
取り留めのない話でしたがお聞きいただきありがとうございました。

by shoko : July 16, 2007 7:31 PM

shokoさん、こんばんは。
出会われたご婦人は、ちゃきちゃきですね。「おかみさん」はよく使いますが、「ごしんぞさん」はなかなか聞くことはありません。
江戸っ子って、下町生まれが3代続いてようやっと、そう呼べると言いますから、祖父はひとつ前のエントリーにて触れましたように千葉銚子の生まれ、祖母は北海道なのです。父方は東京ですけれど山の手、すなわち生粋の3代目ではありませんので、わたくしの場合は違いますね。

そして、5歳まで渋谷区におりましたが、以降成人するまでは吉祥寺で育ちました。よってわたくし自身は多摩育ちだという意識が強いです。

江戸訛りは明治のころまでに東京下町で生まれ、育った方でないと、なかなか喋れないと思うのですよ。山の手言葉とも違いますしね。以前「唾玉集」という明治の有名人、そして市井の人々をインタビューした本を読んだときには、斯様な言葉が沢山でてきて、楽しかったです。
以降の生まれですと芸妓の姐さんとか、職人衆くらいではないでしょうか。そういった面で、母は斯様な言葉をあまり使いませんが、よく聞いて育った最後の世代かと思います。なんと言っても性格が伝法で鉄火、下町娘丸出しですからね。
父は山の手、恵比寿なのですが、言葉は下町風のべらんめぇ調でかなり汚いです(笑)

楽しい話題をいただき、ありがとうございました。

by M.Niijima : July 17, 2007 4:01 AM

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