« 水辺の風景-ロケハン(4) | main | 水辺の風景-ロケハン(5) »

March 30, 2007

  その南に楽園はあるのか(水辺の風景番外)

前回エントリーより)
『その親水公園の西端、水門の上を「大門通り」が南北に走っているのですが、この写真を撮りました初回ロケハン時はここで一旦水辺から離れて、その通りを南に向かいました。』


この「大門通り」を南下しますと、永代通りとの東陽3丁目交差点に至ります。そして交差点を越えると道はゆるやかに左に曲がりながら、こんもりとした地形を超えることになります。ここにはかつて橋が架かっており、現在暗渠となっている元洲崎川を渡る「洲崎橋」の跡なのです。
現在「洲崎」という地名は使われておりませんで、この洲崎橋跡を越えた南側は「東陽1丁目」という地域になります。

東陽1丁目近辺地図

-

この辺り江戸時代中頃は遠浅の海岸でございました。「東陽1丁目」の西、「大横川南支川」を越えた「木場6丁目」に、江戸のころは「洲崎弁天社」と呼ばれていた現洲崎神社というお社がございます。この辺りの洲崎という地名は、この弁天社を中心に発展していった処からきているようでございます。
その遠浅の海岸だったころは、参道には茶屋が並び遊覧地として賑わったそうで、初日の出を見る絶好の場であり、3月のいまごろは潮干狩りに、そして暖かくなると舟を出し、辰巳の芸妓と弦歌、宴を楽しむ旦那たち、冬にやってくる千鳥の声を聞きにくる通人までおったそうです。(中尾達郎著「江戸隅田川界隈(三弥井書店刊)」による)。

現東陽1丁目あたりが埋め立てられたのは明治中期で、そのとき東京大学を建てることから近隣の根津遊廓をその埋め立てた場所、洲崎弁天町へ強制的に移したのだそうです。その後、廓の街はますます規模を大きくし、荷風の「夢の女」はそんな頃の廓を描いています。
東京大空襲でほぼ全域壊滅した後、戦後から昭和33年までは特飲街として再度賑わったのだそうです。


先に記しました洲崎橋(跡)のところには吉原と同様の大門が設置されていたことより、ここを経る道、わたくしが仙台掘りから南下してきました道のことを「大門通り」と呼んでいるのだそうです。
大門は戦後の特飲街時代にはアーチ状のものになり、そのアーチには電飾文字でこう書かれていたそうです。


「洲崎パラダイス」


続く

posted by mniijima : Mar 30, 2007

trackback

trackback URL for this entry:
http://www.mniijima.com/across/cgi/mt/mt-tb.cgi/122

comments

お話を聞いていると行ってみたくなります。ずっと前、宇江佐真理さんの小説「髪結い伊三次」というのを読んだことがあるのですが、主人公伊三次の恋人が辰巳芸者なんです。大衆小説ですが面白かったです。花の季節が一段落したらピンホールカメラを持って回ってみたいです。

by shoko : March 31, 2007 9:36 PM

shokoさん、このようなコメントをいただけるとは思ってませんでしたので、嬉しいです。

> 宇江佐真理さんの小説「髪結い伊三次」

は、存じませんでしたが、宇江佐さんの「深川恋物語」という短編集に「仙台掘」というお話しがあるそうで、読んでみようと思っていたところなのです。

仙台掘は、昨夜桜が満開でした。深夜の撮影(については、またエントリーします。)中、たった一人きりで満開の桜を堪能してきました。
もう辰巳芸妓などの江戸情緒や、洲崎パラダイスのような濃厚さなど、どこを歩いてもありませんが、それでも此処の水辺からは、他にはない、埋め立てと運河による土地の人工物が発する独特なものを感じます。

shokoさんのピンホール写真を楽しみにしていますね。

by M.Niijima : April 1, 2007 1:37 AM

post a comment




remember personal info?


(you can use some html tags.)